近江屋事件

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2014年1月現在の近江屋跡地
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2013年7月に撮影された近江屋跡地
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2011年1月に撮影された近江屋跡地

近江屋事件(おうみやじけん)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年11月15日1867年12月10日)に坂本龍馬中岡慎太郎京都河原町近江屋井口新助邸において暗殺された事件。江戸幕府京都見廻組によるものという説が有力である。

経緯

坂本龍馬はそれまで宿舎としていた薩摩藩の定宿であった寺田屋が江戸幕府に目をつけられ急襲(寺田屋事件)されたため、三条河原町近くの材木商鮓屋を京都での拠点にしていたが、慶応3年10月頃には近江屋(醤油屋)へ移った。このことについて薩摩の吉井幸輔は「四条ポント町位ニ居てハ、用心あしく」として土佐藩邸に入れないのであれば薩摩藩邸へ入るよう勧めた[1]が、薩摩藩邸に入る訳にはいかないとして龍馬は近江屋に留まった。

11月15日(12月10日)、夕刻に中岡が近江屋を訪れ、三条制札事件について話し合う。夜になり客が近江屋を訪れ、十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいと願い出た。元力士山田藤吉は客を龍馬に会わせようとするが後ろから斬られた(1日後に死亡)。大きな物音に対し、龍馬は「ほたえな!(土佐弁で「騒ぐな」の意)」と言い、刺客に自分たちの居場所を教えてしまう。刺客は音もなく階段を駆け上がり、ふすまを開けて部屋に侵入した。そして龍馬は額を斬られた(この他、浪士達が2人を斬る前に名刺を渡してから斬ったという説など諸説ある)。龍馬は意識がもうろうとする中、中岡の正体がばれないように中岡のことを「石川、太刀はないか」と変名で呼んだという。その後、龍馬は後頭部から背中、再度額を深く斬られたところで刺客のひとりが「もうよい」と叫んで全員立ち去った。龍馬は中岡に「慎太、わしは脳をやられちょる。もういかん」と言い絶命した。中岡はまだ生きており助けを求めるが、2日後に吐き気を催した後に死亡した。

凶行時、騒動に気付いた近江屋家人の井口新助が土佐藩邸へ知らせに駆け込んだ。下横目嶋田庄作が近江屋の門口で刺客が出て来るのを抜刀して待ち構えていた所へ、龍馬の遣いで軍鶏を買いに出ていた鹿野峰吉が戻り、嶋田と共に部屋を確認したところ刺客は既に去った後で、陸援隊の詰所である白川屋敷へ峰吉が知らせに走った。土佐藩邸から河村盈進と同時に、曽和慎八郎が、続いて谷干城毛利恭介、薩摩藩の吉井友実、陸援隊士の田中光顕海援隊隊士の白峰駿馬らが現場に駆けつけた。 [2]

なお、近江屋と土佐藩邸の位置関係は、河原町通りを隔てた真向かい(数メートル)であった。

実行犯

この事件では、事件当初は新選組が実行犯だとの噂が流れて、それに関連して天満屋事件などが起こったが、実行犯は見つからなかった。しかし、1870年(明治3年)に見廻組隊士だった今井信郎の供述が転換点になり、見廻組が実行犯であることが有力となった[3]。現在の歴史学上では見廻組の佐々木只三郎らを実行犯とする説が通説として扱われている。

新選組犯行説

新選組の、もしくは新選組の隊士の犯行とする説。いくつかの証言や物証を根拠としており、事件当初は有力な説だった。事件当時の現場に残されたなどの物証や、3日後に暗殺された伊東甲子太郎の同志(御陵衛士)らの証言から新選組の原田左之助によるものと推定されたが不明。北辰一刀流の達人である龍馬を殺害できるだけの実力のある人物となると斎藤一ではなかろうか、と推定する説もある。事件後、11月26日に幕府から取調べを受けた新選組局長の近藤勇は関与を否定している。

「刺客が『こなくそ』と伊予弁を話していた」とされ、伊予出身の新選組の原田左之助や大石鍬次郎らの仕業とされたりしたが、刺客が「こなくそ」と言ったという話は土佐出身の谷干城の証言以外には無く、新選組の実行犯説は史実的には根拠はない(この記述には遭難の2日後まで存命した中岡の証言と異なることから疑問あり)。

京都見廻組説

1870年(明治3年)、見廻組隊士だった今井信郎が箱館戦争で降伏し、囚われていたところ、新選組隊士であった大石鍬次郎や横倉甚五郎らの、犯人は見廻組であるという供述により、今井も近江屋事件について取調べを受けた。その際今井は、坂本・中岡暗殺に関与したと自白し、裁判により禁固刑となった。

今井は明治後期以降にも証言を行った他、大正時代には同じく元見廻組隊士の渡辺篤が証言を行っている。ただし、今井や渡辺の口述に食い違う部分(刺客の人数構成、供述による斬った箇所と実際の傷の箇所の相違、現場に置き忘れた鞘の持ち主など)がある[4]。しかし、谷干城は頑なに新選組犯行説を信じており、今井の証言について「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と発言した。

誰が見廻組へ指図したかについては、勝海舟は幕府上層部の指示であると推測している。なお、当時の政局では大政奉還に反対する佐幕派の譜代諸侯が多かった。見廻組は京都守護職松平容保会津藩主)の支配下にあり、磯田道史は「佐々木の兄で会津藩公用人であった手代木直右衛門が、松平容保の命で佐々木に実行させた」と、手白木が記した書を元に指摘している[5]

諸説

見廻組説における隊士の自供・談話以外に確実な史料の存在はいまだ確認されておらず、歴史学上「見廻組による暗殺という事実は、もう動かない」[6]が、薩摩藩陰謀説をはじめとする数々の陰謀説が唱えられ、小説などでの創作(浅田次郎の『壬生義士伝』など)も盛んに行われている。

また、現在においても坂本龍馬の知名度は中岡慎太郎に比べて圧倒的に高いが、「刺客の狙いは実は中岡慎太郎のほうであった」という説が存在する。しかし、当時の風聞伝聞の類においても主に知名度の高い坂本龍馬の名前が主となっている。当時、「陸援隊に新撰組のスパイがいたという」のコラムが掲載された書籍があり、たまたま坂本龍馬が同席し巻き込まれて殺されたともされるテンプレート:要出典

紀州藩士報復説

紀州藩、ないしは紀州藩士による報復行動だとする説。

海援隊隊士の陸奥陽之助(陸奥宗光)らは、海援隊と紀州藩の間に起こり、海援隊側の勝利に終わった訴訟「いろは丸事件」に対する、紀州藩士の恨みによる犯行であると考えていた。そのため、紀州藩公用人の三浦休太郎(三浦安)が海援隊隊士らに襲撃される報復事件(天満屋事件)が発生した。

薩摩藩陰謀説

西郷隆盛大久保利通らを中心とする薩摩藩内の武力倒幕派による陰謀だとする説。

松平春嶽勝海舟から影響を受けた龍馬は諸侯会議による新政府の設立を説いており、大政奉還を受け入れた徳川慶喜をそこに含めることを想定していた。そのため、武力倒幕と旧権力の排除を目指していた西郷隆盛と、新体制への穏健な移行を説いていた坂本との間に、慶喜の処遇をめぐる意見の相違が生じた西郷、大久保らは新政府のあり方について意見の異なる龍馬の動きを看過できなくなり、故意に幕府側に坂本の所在を漏らすなど暗殺に関与したとする。この武力倒幕派の暗躍という説は、佐々木多門の書状や近江屋の女中たちの証言[7](現場に駆け付けた海援隊士中島信行が女中に聞いたという話。ただし、当時中島はいろは丸の件で長崎におり、現場に駆け付けるのは不可能だったと一蹴されている)などの資料が影響を与えている。

しかし、龍馬自身が幕府大目付である永井尚志と談合するなど憚りのない行動を取っており、それを周囲に警告されているような状態では、たとえその様な情報は無くとも京都見廻組が龍馬の所在を難なく突き止められたであろうと考えられる。また、中岡慎太郎も武力倒幕派であり、薩摩藩家老である小松清廉も大政奉還を慶喜に迫っているなど様々な矛盾が生じる。そのため、大政奉還路線と武力倒幕路線の対立を必要以上に強調しすぎたきらいがあるというのが、歴史学上ではおおむね統一した見解となっている[8]。薩摩藩陰謀説が成り立たないことを政治史的な観点から主張したものに、歴史研究家の桐野作人「龍馬遭難事件の新視角-海援隊士・佐々木多門書状の再検討- 第1回・第2回・最終回」(『歴史読本』第51巻第10号・第51巻第11号・第51巻第12号、2006年)がある。

テレビ・小説などではこの説を採用することが多く[9]、旧来の歴史学上の多数派の主張とは異なり、一般では近年この説を支持する人が多い傾向にある。

外国陰謀説

武力倒幕により、薩長倒幕側に武器の売り込みを狙った企業体ジャーディン・マセソン系のイギリス人・トーマス・ブレーク・グラバー、外交官・ハリー・パークスアーネスト・サトウらにより仕組まれた陰謀であるとの説。加治将一らが主張しており、いわゆる「フリーメイソン陰謀論」に属する。

跡地

現在、「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」と記された石碑が建っている場所[10]は、当時の近江屋の北隣にあたる。建立場所が隣地になったのは、1927年(昭和2年)の建立の際、土地所有者の了承が得られなかったためとされる[11]

注釈

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関連項目

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  1. 慶応3年10月18日・望月清平宛書簡
  2. 参考資料 大正5年『川田瑞穂氏聴取書 鹿野安兵衛(菊屋峰吉)、井口新之助(新助の子)談話』
  3. 松浦玲『新選組』(岩波新書、2003年)p.154
  4. 2006年学習研究社から発売された『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』では、菊地明が「寺田屋事件の際に捕縛方一人を殺害したことで”お尋ね者”になっており、見廻組が逮捕のためにやってきた」という話を書いているが、これも今井信郎の供述からである。
  5. テンプレート:Cite book
  6. 松浦玲『暗殺-明治維新の思想と行動-』(徳間書店、1966年)p.217
  7. 昭和27年(1952年)『維新正観』で蜷川新が述べているが、出典は確認されていない
  8. 家近良樹『幕末政治と倒幕運動』(吉川弘文館1995年)・高橋秀直「「公議政体派」と薩摩倒幕派-王政復古クーデター再考-」(『京都大学文学部研究紀要』41、2002年)・佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)・井上勲「大政奉還運動の形成過程(一)」(『史学雑誌』81-11、1972年)などが参考になる。
  9. 大河ドラマ新選組!』(但し実行犯は定説通り見廻組の佐々木只三郎一派によるものとして描かれる)、テレビ東京新春ワイド時代劇竜馬が行く』、大河ドラマ『篤姫』(西郷の独断として描く)など
  10. 以前は旅行代理店(京阪交通社)、2009年夏からコンビニエンスストア(サークルK)があったが、2013年6月現在はサークルKも閉店し石碑と案内板のみとなっている。
  11. 中村武生『京都の江戸時代を歩く』(文理閣 2008年)171ページ