十七か条協定
十七か条協定(じゅうななかじょうきょうてい)は、中華人民共和国がチベット東部を軍事制圧した後、1951年5月23日、北京において締結された中華人民共和国とチベットの間の政治的取り決めである。
正式呼称は中央人民政府と西藏地方政府のチベット平和解放に関する協議。十七か条の条文を有することから、「十七か条協定」と略称される。
概要
1912年以来、チベット政府(ガンデンポタン)が求めてきた、中国(1949年までは中華民国、それ以降は中華人民共和国)とは別個の独立国としての国際的地位の確立、ガンデンポタンによるチベット全土の統合を否定し、中華人民共和国によるチベットの併合を「祖国大家庭への復帰」、「解放」と位置づけ、西蔵を含むチベットの全土を「中国の地方」、ガンデンポタンを西蔵部分のみの統治を担う「西蔵地方政府」と位置づける内容を有する。一方で、引き続きガンデンポタンによる民族自治の保証、「西蔵」(チベットのうち、清朝期以来ガンデンポタンにより確保されてきた部分に対する中国語の呼称)における現行政治制度の維持、「中央政府」が改革を強要しないこと、ダライ・ラマの地位および職権の保証、宗教信仰と風俗習慣の尊重と寺院の保護、チベット語の尊重と独自教育の発展、各種改革への中央政府の不干渉、人民解放軍による蛮行の制御などを定めていた。
チベット側の代表とされたアボ・アワン・ジグメは、チベットの国家元首であるダライ・ラマ14世から協定締結の権限を与えられておらず、署名に必要な印璽も持参していなかったが、中華人民共和国側は軍事力をちらつかせた恫喝により、アボに署名を強要した(その際に押されたチベットの国璽は、あらかじめ中華人民共和国側が用意していた偽物であったという)。ダライ・ラマ14世は協定締結のニュースを聞き、アボの越権行為に非常な衝撃を受けた。なお、アボはその後のチベットにおける中国共産党の最も忠実な代弁者となった。
協定締結後、中国人民解放軍はチベットの首都ラサに侵攻し、軍事力によってダライ・ラマ14世とチベット議会に十七か条協定を承認させる。ダライ・ラマ14世は、同協定で明確にうたわれていたチベットの高度な自治権を確保するための努力を続けたが、中華人民共和国側はチベットの実質的支配を強化し、同協定の条文を骨抜きにしていった。チベット政府は、中華人民共和国側に十七か条協定を遵守する意志が無いのであればこの協定はもはや意味を持たないと抗議したが、中華人民共和国側はこれを無視した。
1959年、ダライ・ラマ14世はラサを脱出、インドへ亡命した。その途上、国境の手前でダライ・ラマ14世はチベット臨時政府の発足と十七か条協定の正式破棄を宣言した。また、中華人民共和国の中国共産党政府も「西蔵地方政府の廃止」を公表し、ここに十七か条協定は消滅した。