芦川駅 (北海道)

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ファイル:Ashikawa eki.jpg
1977年の芦川駅と周囲約500m範囲の状況。上が稚内方面。千鳥式ホームに駅舎とその横に貨物積卸場の建家及び引込線を有する一般駅で、駅を建設した当初のサロベツ原野開拓拠点としての意気込みが伺える。しかしこの写真の時点では、周辺の民家は殆どなく、積むべき貨物も見当たらない。駅の右上に職員官舎が二棟見える。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

芦川駅(あしかわえき)は、北海道宗谷支庁天塩郡豊富町字芦川にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)宗谷本線廃駅)である。電報略号シハ。利用者僅少に伴い2001年(平成13年)7月1日に、下中川駅上雄信内駅とともに廃駅となった。

歴史

  • 1926年(大正15年)9月25日 - 国有鉄道天塩南線幌延駅 - 天塩北線兜沼駅間延伸開通に伴い開業。同時に天塩南線と天塩北線を統合し線路名を天塩線に改称、それに伴い同線の駅となる。一般駅
  • 1930年(昭和5年)4月1日 - 天塩線を宗谷本線に編入、それに伴い同線の駅となる。
  • 1984年(昭和59年)11月10日 - 出札・改札業務を停止し旅客業務について無人化。但し連査閉塞扱いの運転要員は継続配置。
  • 1986年(昭和61年)11月1日 - CTC導入に伴う合理化により交換設備を廃止。同時に無人化。
  • 2001年(平成13年)7月1日 - 利用者僅少に伴い廃止となる。

駅構造

廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の東側(稚内方面に向かって右手側、旧1番線)に存在した。分岐器を持たない棒線駅となっていた[1]。かつてはホームが千鳥式に配置された相対式ホーム2面2線を有する列車交換可能な交換駅であった[2]。互いのホームは駅舎側ホーム南側と対向ホーム北側を結んだ構内踏切で連絡した[2]。駅舎側(東側)が上りの1番線、対向ホームが下りの2番線となっていた。そのほか1番線の旭川方から分岐し駅舎南側のホーム切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を1線有していた[2]。交換設備運用廃止後は、使われなくなった2番線の線路は撤去されたが、ホーム前後の線路は分岐器の名残で湾曲していた[1]

南稚内駅管理の無人駅となっていた。有人駅時代の駅舎は改築され、ヨ3500形車掌車[3]を改造した貨車駅舎となっていた。駅舎は構内の東側に位置しホームに接していた[1]。ホームの有効長は1番線、廃止された2番線共に50mであった[2]

駅名の由来

当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「サル・オマッ・ペッ」(原にある川)の和訳に由来する[1]。音はサロベツ原野の「サロベツ」と同じ語源である。

利用状況

  • 1981年度(昭和56年度)の1日乗降客数は5人[2]
  • 1992年度(平成4年度)の1日乗降客数は0人[1]
  • 2000年度(平成12年度)の1日乗降客数は1人[4]

駅周辺

附近一帯はサロベツ原野の一部でほとんど何もなかった。駅前に芦川会館という集会所があったが、集会所より先に集落が消滅してしまい、使われないまま放置されていた。

駅跡

車掌車駅舎は撤去されたが機器室は残存している。ホームのあった部分には新しく柵が設置された。

その他

1978年(昭和53年)6月から放映された、NHKみんなのうたの楽曲「切手のないおくりもの」のイメージロケで使用されたことがある。

隣の駅

北海道旅客鉄道
宗谷本線
徳満駅 - 芦川駅 - 兜沼駅

脚注

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関連項目

テンプレート:宗谷本線
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 書籍『JR・私鉄全線各駅停車1 北海道630駅』(小学館1993年6月発行)150-151ページより。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 書籍『国鉄全線各駅停車1 北海道690駅』(小学館、1983年7月発行)186ページより。
  3. 書籍『ダルマ駅へ行こう!』(著:笹田昌宏、小学館文庫2007年5月発行)19ページより。
  4. 書籍『時刻表の謎』(著:三宅俊彦新人物往来社2003年6月発行)59ページより。
  5. 書籍『北海道道路地図 改訂版』(地勢堂、1980年3月発行)17ページより。