ノーマン・ミネタ
テンプレート:政治家 ノーマン・ヨシオ・ミネタ(Norman Yoshio Mineta、日本名:峯田 良雄〈みねた よしお〉、1931年11月2日 - )は、アメリカ合衆国の政治家、元アメリカ陸軍将校。民主党党員。サンノゼ市長(59代)、商務長官(33代)、運輸長官(14代)を歴任。日系アメリカ人として、また、アジア系アメリカ人として初めての閣僚である。
略歴
1908年(明治41年)に渡米した静岡県清水町久米田出身の父・国作と三島市大宮町出身の母・かね(旧姓:渡邊)のもと、カリフォルニア州サンノゼで2男3女の末っ子として生まれる。第二次世界大戦中はワイオミング州のハートマウンテン日系人収容所に収容され、ここで慰問に来たボーイスカウト団員のアラン・シンプソン(後のワイオミング州選出上院議員)と知り合い、生涯の盟友となる。
1953年、カリフォルニア大学バークレー校ビジネススクール学士課程を卒業。この年米陸軍に入り、日本や韓国で情報将校を務める。その後、父親の経営するミネタ保険会社に勤め、1967年サンノゼ市会議員に当選した。
1971年にはハワイを除く米本土では日系人として初めて、大都市サンノゼ市長に当選。1974年にはやはり米本土では初めて米国下院議員に当選した。1995年まで20年以上にわたって下院議員を務め、その間大部分は運輸委員会に所属したほか、1988年には太平洋戦争中に行われた日系人の強制収容に対するアメリカ合衆国政府による公式の謝罪及び賠償を規定したCivil Liberties Act(市民の自由法 (英語))の成立を陰で支えた[1]。
その後、ロッキード・マーティン社副社長を経て、2000年から2001年までビル・クリントン政権で商務長官。2001年から2006年まで共和党のジョージ・W・ブッシュ政権でも運輸長官に任命され、運輸長官として最も長い任期を務めた[1]。2001年9月11日に発生した米国同時多発テロ事件では、運輸省でニューヨークの事件を知り、ホワイトハウスから呼び出されホワイトハウスの地下深くのPEOC(President's Emergency Operating Center)で対応にあたる。米国史上初めて全民間航空機の緊急着陸を命令、アメリカ国内を飛んでいた4638機の飛行機を2時間20分ですべて強制的に着陸させ、アメリカに飛んでくる飛行機の受け入れを拒否し、ヨーロッパやアジアから飛んでくる飛行機の受け入れをカナダに依頼した[2]。多くのアメリカのジャーナリストが人種プロファイリングを支持する中、自身を含む日系人の強制収容を身をもって体験したミネタはこれを拒否、各方面から批判を浴びる中、CBSの番組「60ミニッツ」に出演し、イスラム教徒やアラブ系への人種差別を非難、特定の人種に対するスクリーニングを断固として拒否した。一方で、それまで航空会社の自主判断に任されていた空港での安全検査を、連邦航空保安局に一括、連邦政府職員による全航空機搭乗者を対象とした検査強化で対応した。
2001年11月、ミネタの地元のサンノゼ国際空港は、ミネタの長年の功績を顕彰して、同空港の正式名を「ノーマン・Y・ミネタ・サンノゼ国際空港」と改称した。
現在はヒル&ノールトン社の副会長を務めている。
栄典
脚注
外部リンク
- テンプレート:CongBio
- ノーマン・ミネタ氏インタビュー 全米日系人博物館、ディスカバーニッケイプロジェクト (2008年)
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