源義康
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源 義康(みなもと の よしやす/足利 義康 あしかが よしやす)は、平安時代末期の武将。平安後期に前九年の役・後三年の役で活躍した源義家の子・義国の次男(または三男とも)。足利氏の祖。官位は陸奥守従五位下後、大夫尉。陸奥判官とも称した。
生涯
父から下野国足利荘を相続し、足利を名字とした。父・義国の本領である八幡荘を相続した異母兄の義重は、父とともに上野国新田荘を開墾し新田氏の祖となる。義康は熱田大宮司藤原季範の養女(実孫)を娶り、河内源氏の同族源義朝と相聟の関係になり同盟を結んでいる。
康治元年(1142年)10月、鳥羽上皇が建立した安楽寿院に足利荘を寄進、義康は下司職となった。久安の頃に上洛し、所領の寄進が機縁となって鳥羽上皇に北面武士として仕え、蔵人や検非違使に任官した。また陸奥守にも任ぜられ、「陸奥判官」とも呼ばれた。
保元元年(1156年)、死期が迫った鳥羽法皇が特に信頼できるとして後事を託した五人の武士の中に義康の名もあった。鳥羽崩御後に起こった保元の乱では、源義朝とともに後白河天皇側に付き、平清盛の300騎、義朝の200騎に次ぐ100騎を従え、天皇方主力として最北方の近衛方面の守備を担当した。乱後、敵方の降将・平家弘父子を処刑。論功行賞により昇殿を許され、従五位下大夫尉に任官した。
将来を嘱望されたが、翌年病を得て31歳の若さで没したという。