徐バク
徐 邈(じょ ばく、171年-249年)は、中国三国時代の魏の政治家。字は景山。幽州広陽郡の人。子は徐武・女子一人(王濬の妻)。
曹操が河北を平定した際に見出され、丞相軍謀掾となった。また、奉高県令を試しに任され、後に東曹議令史となる。魏が藩国として建国されると、尚書郎になった。曹操が禁酒令を出したときは、それに背いて酒を飲み酔いつぶれていたため、職務上の質問に「聖人に当たった」と応答して、曹操の怒りを買った。曹操は徐邈を処刑しようとしたが、鮮于輔が「普段の徐邈の性格は慎み深く、今回は酒の上での仕方ない行動であります」と弁護したため、免職で済ました。
その後、朧西太守・南安太守となり、曹丕(文帝)の即位後は、譙県令・平陽太守・安平太守・典農中郎将を歴任し、関内侯の爵位を得た。曹丕はかつての徐邈の発言を引いてからかったが、徐邈が機智に富んだ受け答えをしたため、彼を評価し、撫軍大将軍軍師に任命した。
曹叡(明帝)の時代には、蜀漢との国境地帯である涼州の刺史に任じられ、使持節となり護羌校尉を兼任した。蜀の諸葛亮が魏領への北伐を開始すると、涼州の異民族がそれに呼応し反乱を起こしたが、徐邈はただちにそれを鎮圧した。その後、農耕の充実と民衆の教化に力を尽くし、涼州の統治に多大な功績を挙げ、西域との交易を確保し異民族の入貢を促した。また、柯吾を討伐した功績で都亭侯となり、三百戸の所領を与えられ、建威将軍の軍位を得た。
異民族に対しては、僅かな過失に目をつぶる一方で、大きな罪には指導者への告知を尽くし手続きを経た上で厳罰を用いたため、異民族の心服と敬意を得た。
徐邈は部下に施しをよく行ない、私腹を肥やそうとしなかったため、妻子の衣服も不足しがちな状況であったという。そのため明帝は随時支給を行った。
240年、中央に戻って大司農となり、司隷校尉に昇進したが、ある事件のため官を辞した。その後、官に復帰すると光禄大夫になった。248年、司空に推挙されたが、道義と老齢を理由に就任を固く拒絶し(三少帝紀)、249年に大夫の身分のまま、78歳で世を去った。葬儀は三公の待遇で執り行われ、穆侯と諡された。
254年、同じく既に亡くなっていた田豫・胡質と共に、かつての功績と清廉な暮らし振りが評価され、余財を遺されなかったという一族に対し、穀物と銭が給与された。
徐邈と同程度の名声があったという人物に豫州刺史の韓観がおり、韓観の名声は孫礼・盧毓よりも上であると称されていたという。また、盧欽も徐邈の性格を絶賛した。
小説『三国志演義』には登場しない。