公孫康

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公孫 康(こうそん こう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての群雄。幽州遼東郡襄平県の人。家系公孫氏。父は公孫度。弟は公孫恭。子は公孫晃公孫淵

建安9年(204年)、父の後を継いで太守となった。

同年、楽浪郡18城の南半分である屯有県(現在の黄海北道黄州か)以南を裂いて帯方郡を設置し、韓やまで勢力を広げた[1]

建安12年(207年)、烏桓の大人(単于)楼班と袁煕袁尚兄弟らが曹操に追われ遼東郡に逃れてきた時、袁尚らがいることを理由に曹操が攻めてくる事を恐れ、楼班をはじめ袁煕・袁尚らを殺し、その首を曹操へ差し出した。これにより、曹操から襄平侯・左将軍に任命された。

没年は不明だが、曹丕(文帝)の時代までには死去していたらしく、曹丕から大司馬を追贈されている。

関連項目

脚注

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  1. "是後倭韓遂屬帶方"『三国志』魏書 東夷伝韓条より。