ルワン・ウィチットワータカーン
ルワン・ウィチットワータカーン(หลวงวิจิตรวาทการ、1898年 - 1962年)はタイの政治家、文人。ウタイターニー県、サケークラン郡出身。華僑商人であるイン・ワッタナパリダー(อิน วัฒนปฤดา )の息子で中国名は金良「キムリアン」(กิม เหลียง)。[1] ルワン・ウィチットワータカーンは官位・欽錫名である。華人ではあったが文壇では華僑を批判するようなコメントを次々発表し、愛国的色彩の濃い作品を発表した。政治的にはパホン、ピブーンソンクラーム、サリット・タナラットなどの大臣の下、役職を仰せつかるなど「世渡りの上手な政治家」であった。私的には最初フランス人女性と結婚していたが、後に離婚しタイ人女性と再婚している。
伝記
ルワン・ウィチットは初等教育を終えるとバンコクへ上京しワット・マハータート(仏教寺院)でパーリ語を学んだ。19歳でパーリ語第5級試験をパスし、仏教学の教鞭を取ったが還俗し、外務省に就職。独学で英語、フランス語をマスターし、イギリス、フランスのタイ大使館で秘書を務めた。1926年にタイに帰国。外務省外交部に勤めたが翌1927年には印刷所を開き『ドゥワンプラティープ』紙を創刊し、文筆業を始めた。一方で政権下では無初任大臣を経験、1924年には芸術局長として政治の舞台に戻った。1942年はピブーン政権下で外相を務め、翌年には駐日大使となった。戦後には戦争犯罪法で戦争責任を問われるが最高裁判所が「戦争犯罪法は事後成立であり違憲である」との判決が出たため釈放。1951年からは返り咲いたピブーン政権下、大蔵省、商務省、経済省の大臣などを歴任し大臣を辞めるとヨーロッパ各国の大使を務めた。1960年にはサリット政権下、サリットの政治顧問に任命され、その愛国的思想から大学の評議員や学術語の制定委員会の委員をつとめたりした。
文学者としてのルワン・ウィチット
文学者としてルワン・ウィチットは死ぬまで200以上の著作を残している。筆名にオンコット、ウェーティット、サモーン、セーンタムなどがある。その著作は前述したように愛国色に満ちており強い言論統制をしいたサリット政権下でさえその著作が体制側の目の敵にされることが少なかった。また「タイ」と言う言葉が著作の題名に非常に多く使われており、これもルワンウィチットの愛国心よく表しているとされる。代表作には、学術面で『タイの歴史』、『世界の歴史』、『世界の宗教』などがあるが評価を得ていない。戯曲には『スパンの血』、『タラーンの戦い』などがあり、長編小説としては『チエンルンの王位』、『チャンパーサックの貴女』などがあるがいずれも愛国色が強い。