UWF
テンプレート:Otheruseslist UWF(ユー・ダブリュー・エフ)は、日本のプロレス団体。設立時期により第1次と第2次に分かれる。正式名称はユニバーサル・レスリング・フェデレーション、ユニバーサル・レスリング連盟(Universal Wrestling Federation)。
格闘技路線のプロレスで人気を呼び、当初は古代ギリシャのパンクラチオンの復興を目指して設立されたが離合集散を繰り返し、第二次UWF崩壊以後は分派した団体間、個人間で誹謗、中傷が頻発した。
なお、これらUWFの思想から派生したプロレス団体、格闘技団体を総称してUWF系と呼ぶ。略称はU系。
入場式等で使われたメインBGM(通称:「UWFのテーマ」)は「Uの遺伝子」と称され出身レスラー(山崎一夫、田村潔司等)が大一番で使用し、神聖なものと捉える人もいる。現在では高校野球の応援歌としても使われている。
ちなみにアメリカにもビル・ワットが主宰した同名の団体(Universal Wrestling Federation)が同時期に存在したが、交流も関係も全くない。スティーブ・ウィリアムスらが保持していたUWFヘビー級王座は、このビル・ワット版UWFの認定タイトルである。
また日本にも同名の団体「ユニバーサル・プロレスリング」が1990年に設立されているが関連はなく、プロレススタイルも異なる。混同を避けるため当ページの団体をUWF、1990年設立のものはユニバーサルと呼び分けることもある。
目次
第1次UWF
概要
ファン及び専門誌では旧UWFとも呼ばれる。また所属選手にはユニバーサルと呼ばれる場合がある。第一次UWFは1984年に新日本プロレスの営業本部長だった新間寿を中心に、同じく新日本プロレス所属の前田日明と、同じく新日本プロレス所属で元国際プロレスのラッシャー木村、剛竜馬、グラン浜田らによって立ち上げられた。
設立までの経緯
UWF設立の裏には、当時アントニオ猪木が起こした事業「アントン・ハイセル」の失敗により猪木が莫大な負債を抱え、その補填をする為に新日本で得た収益を資金流用しているという話に端を発するお家騒動(新日クーデター事件)が大元にある。この騒動により、猪木派であった新間寿営業本部長と反猪木派社員が反目。新間が猪木の新たな受け皿として用意したのがユニバーサル・レスリング連盟(UWF)である。前田日明によると、クーデター事件により新たな資金源が必要になった猪木が、フジテレビと契約するために作ったという[1]。
一時クーデター派によって新間は営業本部長を解任され、同時に猪木も代表取締役社長を一時的に解任。しかし「猪木なしでの新日本プロレス中継はありえない」というテレビ朝日の介入によりクーデターは未遂に終わる。
そういった経緯から、設立前にはアントニオ猪木を含めた新日本プロレスのレスラーの参加が噂され、旗揚げ戦のポスターにも当時の新日の主力選手達や主力外国人レスラー達の写真が載せられたが(「私はすでに数十人のレスラーを確保した」というフレーズまで刷り込まれた)、結果としては前田日明を始め、セミファイナル以下のレベルのレスラーが旗揚げに参加にするにとどまった。
なお前田は、「猪木さんが『俺も後から行くから、先に行ってくれ』と言われたので移籍した」と後に発言している。また佐山聡は後に、男性誌の連載記事にて前述にあるような事件の内幕を暴露している。
外国人レスラーに関しては、表立ってはいなかったが、ジャイアント馬場のルートでテリー・ファンクが窓口となり選手を斡旋している(旗揚げシリーズには、テリーが主戦場としていたサンアントニオ地区からボブ・スウィータンとスコット・ケーシー、テネシー州メンフィスのCWAからダッチ・マンテルが来日)。これは旗揚げ前に新間から馬場に「猪木とUWFを作るがそれがきっかけで外人引き抜き戦争が再燃しないように外人ルートで協力してくれ」と依頼があったためといわれており、マーク・ルーインやサイクロン・ネグロといった全日本プロレスへの来日経験者がUWFに登場したのはこのためである。新間寿退陣後は剛竜馬やマッハ隼人をブッカーに、カナダ大西洋岸のマリタイム地区やメキシコのEMLLからの招聘ルートを独自に開拓した。カナダからはフレンチ・マーテル、レオ・バーク、スウィート・ダディ・シキなどのベテランのほか、ダニー・クロファットもフィル・ラファイアーの名義で第一次UWFに初来日している。
路線
旗揚げ戦は、1984年4月11日埼玉県・大宮スケートセンターにて行われた。旗揚げ戦のポスターに掲載されていた、猪木を始めとする当時の新日の主力選手たちや、ハルク・ホーガン、アンドレ・ザ・ジャイアントら当時の新日のトップ外国人レスラーたちは誰も出場しなかった。そのため、これらの選手の来場を期待したファンからの罵声や、当日の興行には関係のない猪木、長州、藤波らのコールがメインの前田の試合中に発生するなど、波瀾含みのスタートだった。
旗揚げシリーズは路線も定まらない状態だったが、前田の師匠格である藤原喜明が高田延彦を引き連れ参加したあたりから方向性が定まり始め、道場で行われるスパーリングのような関節を取り合う攻防を中心としたレスリングに転換していく。殴打技や蹴り技も取り入れており、極真会館の空手家でキックボクサーの山崎照朝を特別コーチに招いて指導を受けた[2][3]。その様子はのちに極真会館の空手道選手・松井章圭と『ゴング格闘技』(1987年8月号)で対談した際に前田自ら語っている[2][3]。
一方の新日本プロレスは長州力率いる維新軍との軍団抗争が激化。純プロレス路線をさらに推し進めるなか、UWFは1984年7月23日・同24日の後楽園ホール「UWF無限大記念日」大会に、引退していたタイガーマスクがザ・タイガーとして、新日本退団後に佐山自身のジム(当時の名称はタイガージム)でインストラクターをしていた山崎一夫を引き連れて、出場することになる。大会が成功した後も一部のプロレスマスコミやファンの強力なバックアップもあり、山崎共々、継続参戦することになり、8月4日、正式にUWF入団を果たす。後に新日本を退団した木戸修も加わることになり、基本となるUWFの陣容はこれで固まった。なお、佐山は復帰の条件として一部フロントの追放を挙げ、これにより新間寿は正式にUWFから手を引いた。この時、新間に追従する形でグラン浜田が離脱した。
なお、彼らは皆当時「伝説のストロングスタイル・レスラー」として神格視されていたカール・ゴッチ門下生だったこともあり、ゴッチが彼らを指導したことも人気に拍車をかけた。また、ゴッチの娘婿である空中正三も選手兼レフェリーとして参加した。ゴッチもまた弟子が参集したUWFを喜び、ジョー・マレンコなどの選手派遣など協力を約束。ここにUWFの目指すレスリング=ゴッチ流ストロングスタイルという一応のラインができあがる。
佐山はリングネームをスーパー・タイガーと改め、9月7日後楽園ホールの「UWF実力No.1決定戦」第1ラウンドで藤原を、9月11日同所での第2ラウンドで前田を倒し「実力No.1」の称号を獲得。試合はシングルがほとんど、ロープワークを廃する、相手の技を簡単に受けないなど従来のプロレスのショー的要素を廃し、「キックが急所にまともに入ったら誰であってもまともに立っていられない」「関節技はポイントがガッチリ決まれば絶対に逃げられない」とする格闘技色の強いレスリングを展開、従来のプロレスに飽き足らなくなっていたファンはUWFの標榜する路線を支持し、一部に「UWF信者」と呼ばれる熱狂的なファンを生み出した。途中、佐山のUWF移籍問題で浦田昇社長が暴力団を介して、佐山のマネージャーだったショウジ・コンチャを強要した容疑で逮捕されるなどスキャンダルも報じられた。また、ラッシャー木村・剛竜馬が「ビクトリー・ウィークス」シリーズ後に離脱する。これは、ゴッチ流ストロングスタイル路線を嫌ったのが理由と言われることが多いが、シリーズ前後での、佐山やゴッチを迎えた道場での合同練習にも彼らが友好的に参加していた事実は、雑誌企画で取材に来た見栄晴のレポートでも紹介されており、また、当人たちが後に離脱の理由について「外国人レスラーのブッキング窓口を巡るトラブルが理由であり、格闘技路線そのものに反対したわけではない」と語っていること、加えて、プロレス批判を強めていく佐山・前田・藤原らから、木村や剛に対する批判がほとんどなされていないことから、この理由はプロレスマスコミ及び一部UWF信者が後になって作り上げたものと見做される。 UWFはこの後もおおむね順調にいくかと思われた。
しかし佐山の参戦は、UWFにとって諸刃の剣だった。佐山は山崎とのタイガージム時代から「新格闘技」と称して、しっかりしたルールにのっとった新しいスタイルの正しいスポーツを模索し、プロレスではなく「シューティング」、その選手には「シューター」という単語を使うようになり、そのプロデュースを手がけることにたいへん熱心だったことから、徐々に試合ルールなどに口を出すようになり、実際それは実行されていった。佐山は最初の試みとして藤原とノーフォールマッチを行い勝利すると、1985年、所属レスラーの戦績から実力査定を行うリーグ戦を開催、ランキング制度を導入し、Aリーグ、Bリーグの2軍制を取り入れた。「反則をより明確にする」「フォールは体固めとブリッジフォールしか認めない」「減点ポイント制を導入し、ロープエスケープを繰り返しポイントがなくなった時点で負けとなる」「UWF認定のキック専用シューズ以外を付けてファイトする時はキック攻撃を行なってはならない。(公式UWFルール第30条3項)」など、内実あまりに実験的な試みを数多く取り込んでいったため、佐山以外の選手は徐々にフラストレーションを募らせていくことになる。
崩壊
「テレビ局が付いていなければ団体運営は出来ない」と言われていた時代、UWFはテレビ番組が無かった。旗揚げ当初、フジテレビが放送するという話もあったが立ち消えになっている。その後、TBSで放送するという話も持ち上がったが、これも諸問題から立ち消えとなり、最終的にはテレビ東京の番組である『世界のプロレス』で一部の試合が放送されたが、放送局の関係でネット局も少なく、しかも定期放送ではなかったためアピールするには不充分だった。
アピール度や放送する事で入ってくる放映権料も無い事で資金繰りに苦しんでいた中で、スポンサーだった豊田商事(一時団体名を「海外UWF」と名乗った事もある)の永野一男会長が殺害されるなど、さらに資金繰りが悪化する。
またリング内では、目指すスタイルの問題、および佐山がUWFの実権を握り自分に都合のいいように団体改革を推し進めたことで佐山とその他選手の間に徐々に溝が生じた。1985年9月2日大阪府立臨海スポーツセンターでの第2回公式リーグ戦で、前田が佐山に喧嘩マッチを仕掛けたことで、ついに不協和音が表に噴出してしまう。佐山は前田の蹴りが自分の下腹部に当たったとして、レフェリーに反則を主張。前田の反則負けとなるが、実際は下腹部には当たっておらず、佐山が一方的に試合を終わらせたものと見られている。その後前田は欠場。この事件はUWFに暗い影を落とし、結果、UWFは1985年9月11日後楽園大会を最後に崩壊する。
佐山も同時に再びプロレス界から身を引き、自身の標榜する新しい格闘技「シューティング(後の修斗)」の創設に力を注ぐことになる。
新日本プロレスへの一時帰還
UWF崩壊後、1985年末に前田、高田、山崎、藤原、木戸が、業務提携という形で古巣である新日本に電撃復帰。前田は挨拶に立った新日本のリング上から「この1年半UWFの戦いがなんであったかを確認するために新日本に来ました。」と宣言、新日本勢との安易な融合を否定し、対決する道を選んだ。なお、崩壊以前から前田日明はジャイアント馬場から「全日本プロレスに来ないか。」と誘われていたが、馬場が必要としたのは、前田と高田だけだったので、他のレスラーの事を考え断っている(当時の全日には長州力らのジャパンプロレスやラッシャー木村らの旧国際プロレス勢も上がっており、UWF全員を受け入れる余力はなかった)。
年が明けて、新日本からの要求により猪木への挑戦権をかけたUWF選手内でのリーグ戦が行なわれる。最終的に前田と藤原が争い、最後は前田のスリーパーホールドで藤原が口から泡を吐いて失神したかに見えたが、藤原も同時に前田の足をレッグロックに捕えており、勝ち残ったのは前田からギブアップを奪った藤原だった。これを受けて2月6日、両国国技館で行われた猪木対藤原戦で、藤原が敗れた後にリングに乱入した前田が猪木の顎に不意打ちのハイキックを入れて猪木をダウンさせた。その際猪木が、反則のナックル(後に肘打ちだったことがわかる)を顎に入れた末に藤原をスリーパーホールドで失神させたことに激昂した前田は「アントニオ猪木だったら何をやってもいいのか!?」と異議を唱えた。これを経て、ついに新日本とUWFの戦いが始まる。
彼らはUWFスタイルを捨てることはなく新日本勢に真っ向からイデオロギー対決を挑み、二つの異なるスタイルが対決するスリリングな展開(実際は新日勢はロープの反動を利用しないUWFスタイルでの戦いを強いられることになった)は、初代タイガーマスクの引退と長州力率いる維新軍の大量離脱、ストロングマシーン軍団の登場による迷走等によりかつての勢いを失いかけていた新日本の戦い模様に再び火をつけ、ファンも出戻り組のUWFを大いに歓迎した。
その中で今も語り継がれる名勝負・名シーンも数多く生み出されており、3月26日東京体育館での新日本対UWFの5対5イリミネーション・マッチが行われた(改築前の東京体育館における最後のプロレス興行でもあった)。4月29日津市体育館での前田対アンドレ・ザ・ジャイアントのシュート・マッチは先鋭化する一方の前田を潰すために新日本が画策。この試合はテレビ収録されたにもかかわらず、あまりに異質な試合になったためお蔵入りとなった。前田は「やっちゃっていいんですか」と何度もセコンドに確認を入れ[4]、結果的にアンドレを戦意喪失に追い込んでいる。10月9日両国国技館での2大異種格闘技戦で行なわれた前田対ドン・中矢・ニールセン戦での劇的勝利で前田は猪木に代わり「新・格闘王」という称号を得る。高田延彦と元全日の越中詩郎のIWGPジュニアヘビー級王座を巡る対決を中心としたジュニア戦線の充実(第2期ジュニア黄金時代)なども大きな話題となった。
この中でも特筆される戦いとしては1986年6月12日大阪城ホールで行なわれたIWGP公式リーグ戦、前田対藤波辰巳によるシングルマッチが挙げられる。前田は序盤から容赦ないキックを顔面や胸板に浴びせ藤波を圧倒するも、藤波はすかす事無く真っ向から受け、さらにコーナーの藤波に対して放った縦回転の大車輪キック(今でいう浴びせ蹴り)により額を切り大流血、最後は自らロープに飛ぶというUWF勢としては異例の行動を取る[5]。前田の放ったフライング・ニールキックと藤波のジャンピング・ハイキックが空中で交差し、両者後頭部から落ちてのダブルKOという壮絶な結末になった。この対決後、前田は「無人島と思っていたら、そこに仲間がいた」と語り、上辺ではUWF勢と新日本の雪解けを予感させた。
その後1987年になって全日本に転出していた長州らジャパンプロレス勢が新日本に電撃復帰。この頃から徐々にUWF勢は閑職化していき、6月12日両国国技館でのIWGPリーグ戦決勝・猪木VSマサ斎藤戦にて猪木が4連覇を達成した後、いつまで立ってもリング上が猪木世代に支配されていることに苛立った長州が「前田、おまえは噛み付かないのか?!今しかないぞ、俺たちがやるのは!」とリング上から藤波、前田を巻き込むように世代闘争をアピール。これに前田が「どうせやるんだったら世代闘争に終わらんとな、誰が一番強いか決まるまでやればいいんだよ、決まるまで!」と呼応したことで、猪木・マサ斎藤ら旧世代軍と長州、藤波、前田を中心とする新世代軍の戦いが始まるにつけ、UWFの存在意義は形骸化してしまう。
そしてこの戦いの発起人である長州が「俺はフライングするぞ」の一言で旧世軍との戦いの終結を早々に一方的に宣言したことと、マサ斎藤が猪木との共闘を嫌い再び戦うことを選んだため、ジャパン勢(長州)とUWF勢(前田)の間で確執ができ、ついに11月19日後楽園ホールの維新軍対UWFの6人タッグマッチにおいて、前田日明が長州力を防御の出来ない背後から顔面をモロに蹴るという俗に言う「前田顔面蹴撃事件」を起こした。長州は右前頭洞底骨折の全治1か月の重傷を負い、プロレスにおける暗黙のルールである「故意に相手に怪我をさせるような攻撃はしてはならない」という禁を破った前田はその行為を内外から問題視され、無期限出場停止処分となった。その解除条件としてメキシコ遠征を言い渡されるものの、これを拒否。1988年2月1日付けで新日本から解雇通達を受ける。
第2次UWF
概要
ファン及び専門誌では新生UWFまたは新UWFとも呼ばれる。1988年に前田日明によって旗揚げされたプロレス団体。
旧UWFではスポンサーを見つけられず興行的に苦戦し崩壊に追い込まれたが、新日本との提携時にUWFスタイルをテレビを通じてアピール出来た事から全国的にファンの支持を得る事に成功し、同年5月の後楽園ホールにおける旗揚げ戦のチケットがわずか15分で完売する等、旗揚げ前から異常なまでの盛り上がりを見せた。所属選手6名のみでの再出発となったが、前田は挨拶で「選ばれし者の恍惚と不安、二つ我あり」と心境を述べた。
旗揚げ2戦目の札幌大会では会社を休んで遠方からやってくるファンもいたほどで(ターザン山本が「密航」なる言葉まで生み出した)、放送作家の高田文夫や作家の夢枕獏も札幌まで足を運んだと言う。チケットぴあなどのチケット販売代理業を有効活用し、レーザーライトやスモークによる会場演出といった旧来のプロレスとは異なる新しさを持っていた。
また当初から興行も従来からのシリーズ巡業形式ではなく、月1回の単発形式に絞って各地の主要な会場を回る、ビッグマッチ形式を採用し、連戦による選手の著しいコンディション低下を予防した。UWFの試合では蹴りによるハードヒットを繰り返すため、コンディション維持を考えるとそうせざるを得なかった、ということもある。大会ごとの記念グッズを作ったり、前の大会を完全収録したビデオを次の大会でいち早く販売することで収益を上げて興行数の少なさを補う、など新たな試みがなされた。これらの試みは、選手側のクオリティーの高い試合を生み出す要因となり、またファン側にも「いち早くUWFを観たければ、密航してでも会場に行くしかない」という飢餓感を刺激し、大成功を収める。
この後、有明コロシアムでシュートボクシングとの合同興行「真夏の格闘技戦」でメインに前田対ジェラルド・ゴルドー戦をおいて成功させると以降も大会を開く度にチケット完売記録が続いていき、当時冬の時代を迎えていたプロレス界において唯一天井知らずの人気を獲得しトップを独走していった。またこの後からルール面での整備にも着手し、第1次UWFでも試された。
- 試合は全てシングルマッチ一本勝負。
- 勝敗はKOもしくはギブアップのみでピンフォールなし。
- 5度のダウン(3度のロープ・エスケープで1度のダウンと算定)でTKO負け。
以上の基本的な枠組みを決定し、高田、山崎が早い段階で前田に匹敵する力をつけていったことによって、団体内のパワーバランスも安定する。その後ボブ・バックランド対高田戦や大阪球場での前田対クリス・ドールマン戦などで話題を振りまく。
1989年になると新日本を退団した鈴木実(現:鈴木みのる)、藤原喜明、船木誠勝が入団し、団体としての駒がそろったところで、同年11月には早くも東京ドームに進出し(大会名「U-COSMOS」)、チケット発売日だけで4万枚のセールスを記録、最終的に6万人を動員した。
第二次UWFはノーマン・スマイリー、マック・ローシュ、バート・ベイル、ジョニー・バレット、ウェリントン・ウィルキンス・ジュニア、ディック・レオン・フライ等、常連外国人選手もいるにはいたが、スタイルの違いや招聘にかかる諸経費の問題からなかなか定着する新顔は現れず、また日本人選手が充実していたことで、ほとんどの試合は日本人対決で賄われていった。
崩壊
その後も第2次UWFは順調に進むかと思われていたが、大会スポンサーでもあったメガネスーパーのプロレス界参入により、SWSとの提携話が発生したためフロントと選手間に不協和音が流れ始める。さらに、社長の神真慈以下一部フロントの会社経理における不正疑惑が発覚、それを糾弾した前田が会社への背任行為として5ヶ月間の出場停止処分を受けた[6]。1990年12月の長野大会では船木誠勝の呼びかけにより欠場中の前田日明を含む全選手がリングに勢揃いし万歳三唱、選手の一致団結をアピールし新団体設立を印象付けたが、最終的には神社長が全選手を解雇、これをもって興行活動は停止した。
その後、選手主体による新団体(当時俗に「第3次UWF」とも称された)を設立する方向に動き、翌1991年1月には前田宅にて全選手がミーティングを行った。前田は結束を呼びかけたものの、安生洋二や宮戸優光らから不満が噴出。結局、前田がその場で解散を宣言し、同年内にはUWFインターナショナル、プロフェッショナルレスリング藤原組、リングスの3団体に分裂した。
タイトル
- 第1次UWF
当初はWWF会長だった新間寿の伝手で、WWFインターナショナル・ヘビー級王座だったが、新日本プロレスに全く同じ名前のWWFインターナショナル・ヘビー級王座が存在し(数年前に復活し藤波辰爾と長州力が争っていた王座)、同じ名前の王座が二つ存在すると言う異常な事態となった。王者であった前田はWWFのエリアで防衛戦を一度だけ行ったが、それが最初で最後の防衛戦となり、その後、新間寿がUWFから離れた事によってWWFとの関係も無くなり、王座はUWFヘビー級王座と改称されたが、防衛戦は行われないままUWFヘビー級王座は自然消滅となった。
- 第2次UWF
- 王座は設けていない。
所属選手
- 第1次と第2次両方に所属
- 第1次のみに所属
- スーパータイガー(旧:ザ・タイガー、現:初代タイガーマスク)
- 木戸修
- グラン浜田
- ラッシャー木村
- 剛竜馬
- マッハ隼人(初代)
- ミスター空中(第1次は選手兼レフェリー、第2次はレフェリーに専念)
- 神田秀宣
- 岡本剛(現:ブルーザー岡本)
- 広松智
- 星名浩
- 森泰樹
- 第2次のみに所属
スタッフ、役員
- 第1次と第2次両方に所属
- 神真慈(第1次はリングアナウンサー、第2次は代表取締役社長)
- 第1次のみに所属
- 遠藤光男(レフェリー)
来日外国人選手
脚注
テンプレート:Reflist- ↑ 山本小鉄・前田日明『日本魂』講談社
- ↑ 2.0 2.1 テンプレート:Cite journal
- ↑ 3.0 3.1 テンプレート:Cite book
- ↑ 前田の弁によれば「やれば必ずどちらかが大怪我をする。それでもいいのか」と尋ねたが、黙殺されたうえ「おい、どうした。セメントだぞ」とけしかけられたという。なおアンドレのセコンドに付いていたのは若松市政。
- ↑ この藤波の流血事件については前田が引退後に詳しく解説しており、レガースの下に履いていたシューズの金具が額を切ってしまったと語っている。またミスター高橋も著書の中で偶発的な事故だったと明言している。
- ↑ 『俺たちのプロレス UWFあの頃と今』P84(2014年、双葉社、ISBN 4575454419)