前田利昌 (大聖寺新田藩主)
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テンプレート:基礎情報 武士 前田 利昌(まえだ としまさ)は、江戸時代中期の大名。大聖寺新田藩主。大聖寺藩の2代藩主前田利明の四男。
元禄5年(1692年)、3代藩主である兄利直から1万石を分知され大聖寺新田藩を立藩、大名となる。同藩は領地を持たず、大聖寺藩の収入分から1万石分を与えられただけで、独自の藩庁などの行政機関は持っていなかった。
宝永6年(1709年)1月15日、東叡山寛永寺で行われた5代将軍綱吉の葬儀に際し、中宮使饗応役を命じられる。同役の大准后使饗応役は以前から仲が悪かった大和国柳本藩主の織田秀親であった。2月16日、利昌は寛永寺吉祥院の宿坊で秀親を刺殺した。その後山城国淀藩主石川義孝に預けられ、同月18日に切腹となった。凶行前日、利昌は家臣の木村九左衛門に元禄赤穂事件について感想を求め、木村は「内匠頭は斬らずに刺せば本懐を遂げられた」と返答したという。
大聖寺新田藩は廃藩となり、幕府に一旦収公されたが、すぐに大聖寺藩に還付された。