東京都立狛江高等学校

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東京都立狛江高等学校(とうきょうとりつ こまえこうとうがっこう)は、東京都狛江市元和泉三丁目にある都立高等学校

教育

毎年25名程度の長期留学生を受け入れたり、20年間以上オーストラリアの高校との交換留学を実施するなど国際理解教育に力を入れている。また、東京外国語大学の留学生との交流活動をおこなっているほか、2009年から、国際理解教育の一環として海外への修学旅行(2009年は韓国)を実施している。中国語などの第二外国語を学ぶことができる。

土曜日授業や勉強合宿の実施、受験対策の講習・補習も多く取り組んでいて、大学進学にも力を入れている。

  • 箏曲部が全国レベルの強豪校。

設置課程

沿革

交通

校地の由来

(外部リンク *狛江に高校を:東京都狛江市の記事から引用) 建設予定地は、多摩川のほとりの現在の地、池とバラ園があったところに白羽の矢が立てられた。この池は砂利採取後にできた湧水の池で、この水は都区内に水道水として供給されていたが、体長1メートルを超すようなコイやソウギョが回遊し、フナ、ナマズ、ライギョなども生息する淡水魚の宝庫でもあった。また、1946年(昭和21年)には淡水クラゲの大群がみつかり、「狛江淡水クラゲ発生地」としても知られていた。池のほとりのバラ園は、多摩川寄りの小さな入口にバラのアーチがあり、それをくぐると、色・品種・大きさの異なるたくさんのバラであふれ、多摩川べりの四季を彩っていた。休日ともなると、噂を聞きつけた多くの人々、多くの著名人が遠方から訪れた。歌人、佐佐木信綱氏もその一人であったという。その土地の所有者は、すでに他界されたが元東京大学農学部名誉教授で、バラ園はその親族の方が経営されていた。このバラ園の周囲には、全国各地の農林試験場から贈られた五葉の松をはじめとする珍しい木や花が植えられ玉川大学の実験農場ともなっていたが、教育者として教育に理解を示していた所有者は、東京都からの高校建設にあたる土地の提供依頼に快く承諾をし、1971年(昭和46年)12月に約10,000坪に及ぶこの土地の買収が成立した。1972年(昭和47年)6月、都議会において校舎建設工事の契約議案が議決され、7月11日に、工事が開始された。池の埋め立て造成には、当時進められていた東京急行電鉄新玉川線(現東急電鉄田園都市線)工事の建設残土が運び込まれ、工事は順調に進んだ。しかし、当初は、校舎2階までの部分竣工の段階で自校開校が予定されていたが、田中角栄内閣の提唱する「日本列島改造論」ブームで地価の急騰と建築資材の不足や高騰等により工事が遅れ、新校舎での授業開始は2学期からとなった。

校歌

(外部リンク *九曜会:第二校歌の作詞者・作曲者についての記事を参照) 1974年(昭和49年)5月制定。作詞は国文学者坊城俊民、作曲は英文学者で元武蔵大学教授の田崎篤次郎。歌詞には、万葉集の中に狛江市近辺のこととして「多摩川に曝す手作さらさらに 何そこの児のここだ愛しき」と詠われていることを踏まえ、「高麗人(こまびと)の伝へし技を受け継ぎてあづま乙女は布さらしけり」という反歌が挿まれている。ちなみに、このコンビによる校歌としては他に「都立九中・二十四中合併記念校歌」(東京都立第九中學校(現在の東京都立北園高等学校)第二校歌)、「上板橋第二中学校校歌」などがある。1943年(昭和18年)から1945年(昭和20年)の間、旧制東京都立第九中學校において、坊城俊民は国語科の、田崎篤次郎は英語科の教師として教鞭を執っていた。

校章

イチョウ。学校の正門付近に並ぶ見事な「イチョウ(公孫樹)」の並木は、学校建設当時、建設予定地の池の周りに植えられていたもの。それにちなみ、イチョウは、同校のシンボルとして、また校章にもなっている。

学園祭

「公孫樹(こうそんじゅ)祭」と呼ばれ、毎年9月に行われる。

著名な関係者

出身者

文化・芸能

マスコミ

スポーツ

政治

学術

その他

教職員

関連項目

外部リンク


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