呂虔

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呂 虔(りょ けん、生没年不詳)は中国後漢末から三国時代にかけての武将政治家に仕えた。は子恪。兗州任城(現在の山東省済寧)の人。呂翻の父、呂桂の祖父。

曹操が兗州にいた頃、呂虔が大胆な策を立てるという事を聞いて、従事に取り立て、私兵を率いさせて湖陸(兗州山陽郡湖陸県。現在の山東省魚台と江蘇省の中間あたり)を守らせた。

その頃、東の襄賁(現在の山東省蒼山の東)において、襄賁校尉杜松の配下の炅母達が反乱を起こし、昌豨と同調した。曹操は襄賁校尉を杜松から呂虔に交代させて反乱を鎮圧させようとした。呂虔は任地に付くと炅母ら反乱の首謀者達を酒宴に招き、酔い潰したところで伏兵を呼び寄せ全員殺害し、反乱を鎮圧した。

その後、呂虔は泰山太守も兼任させた。当時の泰山郡は山と海に接する地勢もあって、避難民が各地に潜伏しており、さらに袁紹から中郎将とされていた郭祖・公孫犢とかいった山賊たちが山に拠って住民に暴行を働いていた。しかし呂虔が私兵を率いて就任すると恩愛と信義を示してこれを慰撫したので、郭祖達も全て山を降りて降伏した。呂虔は降伏者を農耕や仕事に従事させると共に、その中から選抜して兵士に登用したので、泰山郡の兵士の精鋭さは州郡の中でも一番と評判になった。

済南の黄巾党の徐和が各地の城を攻撃すると、呂虔は夏侯淵と共にその鎮圧に乗り出し、何度も戦って首を切った者・捕虜になった者が数千人になった。また東萊の李条を討つ時にも功績を挙げ、その功で騎都尉の地位を加えられた。曹操は布告を発し、呂虔の功績を賞賛した。

その後、茂才に推挙され、騎都尉も拝命したが、引き続き泰山太守としての郡政は任され、数十年の統治により威儀と恩徳を及ぼした。

220年曹丕(文帝)が王位に就くと、裨将軍、益寿亭侯に封ぜられ、さらに徐州刺史、威虜将軍に昇進した。徐州を治めるに当たり、王祥を別駕に取り立て、内政を任せたので人々は「良く賢者を信任した。」と褒めたたえた。利城で反乱が起きると、これを鎮圧した。

明帝(曹叡)即位後は万年亭侯に転封され、200戸の加増を受け所領は600戸となった。その死後は子の呂翻が後を継ぎ、呂翻の死後はその子の呂桂が継いだ。

小説『三国志演義』では、劉曄に推薦されて曹操に仕え、新たに毛玠を曹操に推薦した。また、禰衡から「呂虔は刀磨ぎに適している」と言われ、馬鹿にされている。