真幸駅
テンプレート:駅情報 真幸駅(まさきえき)は、宮崎県えびの市大字内竪にある、九州旅客鉄道(JR九州)肥薩線の駅である。
宮崎県で最初に出来た駅であり、肥薩線唯一の宮崎県内の駅である。「真の幸せに入る」に通じるとして、入場券などで人気がある。以前は駅周辺には集落があったが、度重なる土石流災害で住民が移転し、現在は周辺の建物もまばらである。
駅構造
単式ホーム1面1線を有する地上駅。肥薩線の山線と呼ばれる険しい区間にあり、通過不可能な逆Z字型のスイッチバック構造で、かつて運転されていた優等列車も必ず停車しなければならず、急行列車は客扱いを行っていたが、特急は運転停車であった。
駅舎は開設当初のものである。
ホームの中程に「幸せの鐘」が置かれている。幸せと感じる度合いに応じて鳴らすのが良いとされている。
地域のボランティアが駅ノートを設置し、特産品やお茶のサービスなどを行っている。また、ボランティアがいる時間帯では記念入場券を購入することができる。
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左:駅舎線路側(特産品を販売している) 中:プラットホーム 右:「幸せの鐘」 |
利用状況
- 2011年度の1日平均乗車人員は5人である。
乗車人員推移 | |
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年度 | 1日平均人数 |
2004 | 1 |
2005 | 1 |
2006 | 1 |
2007 | 1 |
2008 | 2 |
2009 | 3 |
2010 | 1 |
2011 | 5 |
駅周辺
すぐそばに国道447号が通っているが、駅周辺は林に隣接していて閑散としている。
- 真幸鉱泉(飲料用)
歴史
その名前に反して、当駅とその周辺路線は災難に見舞われている。
1945年(昭和20年)8月22日、多数の復員軍人を乗せた列車が吉松駅との間にある第二山の神トンネル内で立ち往生した。その原因は空襲攻撃により鹿児島本線や日豊本線の主要橋梁が落下して肥薩線が唯一の運転ルートだったことや、戦時中の酷使による機関車の疲弊、粗悪石炭使用による馬力不足に加えて、復員軍人で満員状態だったことなどである。蒸気機関車の煙に巻かれた多くの復員軍人達がトンネル内を歩いて脱出しようとしたところ、これを知らない機関士が列車を後退させ、53名が轢死した。この事故は観光列車「いさぶろう」「しんぺい」車内でも説明される。なお、この事故があったあたりに復員軍人殉難碑が建っている。詳しくは肥薩線列車退行事故を参照。
1972年(昭和47年)7月6日、折からの活発化していた梅雨前線によってもたらされた大雨の影響で駅の裏山斜面が8合目付近から高さ350m×幅280mにわたって崩壊し、これが土石流となって真幸駅構内と周囲の集落を飲み込み死者4名、負傷者5名のほか住家28棟、非住家29棟流失の被害を出した。14時15分頃から5回にわたって発生した土石流の土砂は合わせて約30万m³もの膨大な量に及び、肥薩線を切断し、当駅構内を土砂で埋め尽くすと共に、白川沿いに約1.5kmの広範囲に渡って流出した。線路と駅は復旧されたものの住居に被害を受けた世帯全戸が移転したために当駅周辺はほぼ無人地帯となった。なお、この土石流は現在においても宮崎県最大規模のものとされている。ホームには、このとき流れ込んだ重さ約8トンの巨石がそのまま残されているほか、有人駅時代は駅員が流れ込んだ土砂を毎日整地していた(無人駅となった現在は接着剤で固められている)。
2000年3月12日のダイヤ改正で熊本と宮崎を結んでいた急行「えびの」が廃止されるまで、急行停車駅であった。
- 1911年(明治44年)
- 1927年(昭和2年)10月17日 - 川内本線全通に伴い肥薩線所属駅に変更。
- 1945年(昭和20年)8月22日 - 「肥薩線列車退行事故」発生。
- 1972年(昭和47年)7月6日 - 土石流災害により軌道と駅舎他の運行設備を損傷。
- 1986年(昭和61年)11月1日 - 電子閉塞導入により無人化。
- 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。
- 2007年(平成19年)11月30日 - 南九州近代化産業遺産群の物資輸送関連遺産の1つとして選ばれる。