頴娃久虎

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頴娃 久虎(えい ひさとら、永禄元年(1558年) - 天正15年8月4日1587年9月6日)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将島津氏の家臣。頴娃氏の第7代当主。通称は金福、小四郎、左馬介。頴娃兼堅の次男。母は帖佐氏の女。妻は相良氏の女。子は頴娃久音

元亀元年(1570年)に腹違いの兄・兼有が弑害された為に後を継いだ。天正4年(1576年)の高原城攻め、翌々年の耳川の戦いに参加する。次いで天正8年(1580年)の水俣出兵にも参加し、この頃までに薩摩頴娃(現・鹿児島県南九州市)、薩摩指宿(現・鹿児島県指宿市)の両地頭を兼ねた。天正10年(1582年)頃からは肥前国への出兵に参加し、千々輪(千々石)城攻防戦で戦傷を負う。天正12年(1584年)の島原の陣にも参加、天正13年(1585年)には山田有信と共に肥前などを偵察し、島津義弘によって手柄を激賞されている。天正15年(1587年)4月の根白坂の戦いにも参加しているが、同年死去。法名は桂岳林昌居士。

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