水戸徳川家

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テンプレート:日本の氏族 水戸徳川家(みととくがわけ)は、常陸国水戸にあった徳川氏の一支系で、徳川御三家のひとつ。単に水戸家ともいう。1606年(慶長11)9月23日、徳川家康の十一男である松平頼房が常陸国下妻10万石を与えられ家を興す。1636年(寛永13年)7月、徳川姓を賜姓される。

概要

徳川家康の十一男徳川頼房を家祖とし、江戸時代を通じて水戸藩(現在の茨城県中部・北部)を治めた。格式は御三家のひとつとして大廊下に詰め、屋形号を許された。領国の石高は実収が28万石程度であったが、御三家の格式をもって高直しをした結果、公称は35万石であった。これは水戸藩の財政を厳しくする一因でもあった。また、将軍家宗家が「征夷大将軍」を表すために三葉を表にした表葵御紋であるのに対し、水戸家の葵御紋は三葉が裏になった裏葵御紋が正紋であるので、正式には御三家ではなかったとする説がある。さらに、紀州家の祖である頼宣は同母兄であるので、ある時期[1]まで紀州家の分家であると考えられていた。

大納言極官とする尾張家・紀州家から見ると、水戸家は権中納言にすぎず、石高が低いことなどから「格下の家柄」とするのが一般の認識であるが、水戸家の領地は江戸に近く、また常陸国延喜式における大国かつ親王任国であること、支家の中に高松藩12万石という徳川御連枝の中では破格の禄高の家系(高松松平家)があり、他にも3つの支藩(内分分知を含む)が存在するなどの事情を考慮すると、総合的には上位とされる2家と同等であるとの説も存在する。

水戸家当主は将軍の補佐役と目され、将軍に非常事態が起きた場合の対応に備えて参勤交代の対象外であり、江戸定府とされ基本的には国許に帰国することはまれであった(藩主側近も江戸詰めであったため、国許の家臣と江戸詰め家臣では立場も環境も異なっていた)。「御三家であっても、水戸家からは将軍は出さない」定めであったとする俗説も伝えられている。なお、9代藩主斉昭の子で一橋徳川家に養子に入った慶喜が15代将軍となることによって、江戸幕府最後の将軍を出すこととなったが、これは血統的な視点であり、あくまで御三卿の一橋家から将軍を出したのであり、水戸家から出たわけではない。

水戸家は水戸学を奉じる勤皇家として知られており、「もし徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」との家訓があったとされる。そのため、幕臣からは親藩でありながら外様と同様に警戒されていた。

歴代当主は比較的短命・無子の者が少なく、江戸後期には他家へ多くの養子を出している。尾張藩徳川慶勝会津藩松平容保は、水戸家から高須藩に養子に入った松平義和の血筋である。

明治維新後は華族に列して侯爵を授けられ、さらに公爵にのぼった。13代当主圀順は、財団法人水府明徳会を設立して伝来の大名道具や古文書を寄贈し、散逸を防ぐ措置を取った。1977年、水戸市の光圀の茶室跡に彰考館徳川博物館を開き、その保存・展示に努めている。

水戸家の支系(御連枝)は、讃岐国高松藩高松松平家陸奥国守山藩守山松平家常陸国府中藩府中松平家常陸国宍戸藩宍戸松平家の4家を数える。水戸徳川本家も含めて相互に養子のやりとりはあったものの(ただし尾張や紀州と異なり、支藩の藩主を経て本家を継いだ水戸藩主はいない)、いずれもそれ以外の他家から養子を迎えることはなく[2]、幕末まで頼房の血統で続いた。また江戸時代中期以降、宍戸家を除く3家やそのさらに支家から、多くの養子を他家へ出している。

なお、支藩ではないが3千石の家老格の支族として、頼房の八男・松平頼泰の家系が幕末まで続いている。松平頼譲のときに長倉陣屋に移ったことから、長倉松平家とも呼ばれる。他の支族(支藩以外)は幕末までに途絶している。その他、水戸本家や支家から附家老中山家以下、陪臣の家系(山野辺家雑賀鈴木家など)を継いだ者が、頼房の子の代以来、数多く出ている。

歴代当主と後嗣たち

水戸家は儒教を尊ぶ気風が強く、歴代藩主には漢風の諡号が贈られている。

水戸徳川侯爵家

  • 12代(侯爵篤敬 (式部次官)
    • 圀順(13代)
    • 宗敬(一橋徳川家に養子、貴族院副議長、参議院議員)
  • 13代(侯爵、のち公爵圀順 (日本赤十字社社長、貴族院議長)
    • 圀斉(14代)
    • 圀禎
    • 圀秀(宍戸松平家へ養子)
    • 圀弘(守山松平家へ養子)

戦後の水戸徳川宗家

系譜

凡例:太線は実子、破線は養子、太字は各家の当主

水戸徳川家・高松松平家

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守山・府中・宍戸松平家

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脚注

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水戸徳川家臣団

御附家老 従五位下叙爵

累代家老 従五位下叙爵


累代家老・重臣


一代家老・中堅家臣


備考

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関連項目

水戸徳川家関連

外部リンク

  • 1.徳川姓を賜姓される1636年(寛永13年)頃 2.生母養珠院の死去する1653年(承応2年)頃 3.徳川将軍家の直系が断絶する徳川家綱の死去する1680年(延宝8年)頃 など
  • ただし明治維新の直後には、一度他家へ養子に出た徳川昭武松平喜徳が水戸本家や支家を継ぐ変則的な状況になっている。