本興寺 (尼崎市)

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テンプレート:日本の寺院 本興寺(ほんこうじ)は、兵庫県尼崎市寺町地域(現在の行政区画では開明町)にある法華宗本門流の大本山。京都の本能寺と並ぶ大本山である。

1420年応永27年)に日隆が開基。本能寺が伝道の中心地であったのに対し、本興寺は教学の中心地であり、勧学院という教育機関が設置された(現・学校法人法華学園興隆学林専門学校)。塔頭が6院ある。

現住は134世小西日遶貫首。

歴史と沿革

  • 1420年(応永27年) 尼崎の辰巳(南東)の大物(現・尼崎市大物~東本町)に建立される。この最初の造営地は、近世の尼崎城本丸の故地である。
  • 1617年元和3年) 尼崎城築城に伴い、現在地に移転
  • 1822年文政10年) 本堂が類焼、5年後に再建
  • 1914年大正3年) 勧学院、光長寺檀林と合併して、本門法華宗学林と改称
  • 1941年昭和16年) 本門法華宗学林、法華宗興隆学林と改称。同年、学林教授ら6人が教義綱要の不敬罪で検挙(戦時宗教弾圧である)
  • 1984年(昭和59年) 法華宗興隆学林、法華学園興隆学林専門学校と改称。現在に至る

日隆聖人

テンプレート:Main 日隆は18歳で京都の妙顕寺日霽門下に入り、本勝迹劣本門八品正意を唱えて当時の法華宗門下に、日蓮の本来の教えに立ち返るように説いたが、論戦となり妙顕寺を退出、応永22年(1415年)に本能寺を創立した。応永25年(1418年)、宗教上の対立から月明に刺客を送られるも、刺客らも日隆に帰伏したという逸話(『歴史と宝物』より)が伝わっているが、この事件をきっかけに日隆は尼崎辰巳の浜に移った。この地で細川満元の男子誕生を祈願、無事に男子が誕生し、土地を寄進されて本興寺を創立した。

境内

  • 本堂 - 1822年に焼失、1827年に再建された。
  • 開山堂 - 1558年に建立され、大物から移築した。1469年製の木造日隆聖人坐像を祀る。
  • 三光堂 - 三間社流造銅板葺で室町時代後期の建築。大物から移築した。拝殿は1597年豊臣秀吉加藤清正が再建。法華経信徒守護神を祀る。
  • 三光堂向唐門 - 一間一戸向唐門で江戸時代前期の建築。
  • 方丈 - 1617年に現在地で建立された。曾我紹興大岡春卜、鵬運斎(伝不詳)作の障壁画が残る[1]
  • 祖師堂 - 1822年に焼失、1852年に再建された。日蓮聖人像を祀る。
  • 鐘楼 - 1633年に建立。
  • 御霊水井戸 - 1420年日隆聖人により掘られ、以来水が枯れることがないという。
  • 日隆聖人荼毘所塚
  • 三重宝塔
  • 塔頭 - 一乗院、恵運院、尭運院(鬼子母神を祀る)、本教院、本成院、養寿院

文化財

重要文化財(国指定)
  • 太刀 銘恒次(数珠丸恒次、じゅずまるつねつぐ):日蓮の戒刀。天下五剣の一つ。
  • 木造日隆聖人坐像
  • 開山堂
  • 三光堂
  • 方丈
その他の文化財
  • 三光堂向唐門:市指定文化財(建造物)
  • 鐘楼:県指定文化財(建造物)
  • 笠塔婆:市指定文化財(建造物)
  • 海北友松筆押絵貼屏風:市指定文化財(絵画)
  • 本興寺文書:市指定文化財(書跡)
  • 流水文銅鐸:市指定文化財(考古資料)

所在地

兵庫県尼崎市開明町3-13

交通アクセス

阪神電気鉄道本線阪神なんば線尼崎駅から徒歩5分。

脚注

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参考文献

  • 法華宗総本山本興寺『歴史と宝物』
  • 尼崎市立地域研究史料館『尼崎地域史事典』平成8年刊 尼崎市発行

関連項目

外部リンク

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  1. 詳細は、田中敏雄 「本興寺(尼崎市)の障壁画」『近世日本絵画の研究』(作品社、2013年3月、pp.449-455)を参照。