陳聖宗
テンプレート:基礎情報 ベトナムの君主 陳聖宗(ちんせいそう、Thánh Tông, 1240年 - 1290年7月3日)は、大越陳朝の第2代皇帝(在位1258年 - 1278年)。初代皇帝太宗の長子。聖宗は廟号である。
略歴
元豊8年(1258年)2月、父の太宗が譲位したため、即位することとなった。しかし実権は、太上皇となった父が掌握していた。
クビライの元から服属要求を受けるが、聖宗はこれを拒絶して、元と抗戦する姿勢を示している。宝符5年(1277年)4月に太宗が没すると政治の実権を握り、翌6年10月22日(1278年11月8日)、子の仁宗に譲位して太上皇となる[1]。
1284年、チャンパ遠征のため鎮南王脱歓の率いる元軍が派遣されたが、ベトナムは領内通過を拒否。チャンパと協力し、元軍に応戦した。紹宝7年(1285年)正月、万劫・普頼山の戦に敗れ、紅河が渡河されると、聖宗は国都タンロンを明け渡し、天長・長安の地に逃れる。しかし、4月には攻撃に転じ、5月に元軍が撤兵すると、これを追撃した。6月6日、聖宗はタンロンに帰還した。
重興3年(1287年)、元が再び遠征軍を派遣し、水陸三方面よりベトナムに侵入した。12月、元軍が紅河東岸に達すると、聖宗は叔父を使者として送るが、交渉は決裂。元軍が渡河すると、国都を棄てて天長海口の地に逃れ、さらに海上に逃れた。しかし、ベトナム軍が後方連絡を遮断すると、元軍に糧食欠乏が生じ、さらに疫病が発生した。このため、重興4年(1288年)2月末には全軍撤退が決定された。3月、撤退する元の水軍を、興道王の指揮するベトナム軍が白藤江で待ち伏せ攻撃し、聖宗も遅れてこれに参加し、大勝した。3月27日(1288年4月28日)に国都城に帰還。
重興6年5月25日(1290年7月3日)、死去した[2]。
脚注
参考文献
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