丹後ちりめん

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丹後ちりめん(たんごちりめん)は、京都府北部の丹後地方で生産される高級絹織物の総称。丹後地方の地場産業であり、主な産地は京丹後市宮津市与謝郡与謝野町である。丹後地方は日本国内の約1/3の絹を消費する日本最大の絹織物産地である[1]。白生地のまま京都市・室町の問屋に出荷されることが多く、丹後外で染色や縫製がなされて製品となる[1]

歴史

江戸時代

丹後地方では少なくとも奈良時代からの生産が行われており、正倉院には丹後国竹野郡から調貢された絁(あしぎぬ)が残されている[2]。さらに中世には精好(せいごう)、近世には紬や撰糸(せんじ)などが製織されてきた[2]縮緬の技術が導入されたのは享保5年(1720年)から享保7年(1722年)にかけてである[3]加悦谷では農業や付加価値の低い絹織物だけで生計を立てるのが困難であり、延宝8年(1680年)・9年や享保2年(1717年)の凶作飢饉で生活が危機的状況に陥ったことから、縮緬技術の導入が計画された[3]。享保5年には峰山の絹屋佐平治が京都の西陣から縮緬技術を持ち帰り、享保7年(1722年)には加悦谷の手米屋小右衛門、山本屋佐兵衛、木綿屋六右衛門が故郷に技術を持ち帰った[4][3]。丹後にはすでに技術の蓄積があり、また享保15年(1730年)の西陣の大火で織機が多数焼失したことなどから、織物は品薄となり、丹後や桐生などの新興縮緬産地は大きく発展した[4][5]

京の市場に比較的近いという経済・地理的条件が幸いし、享保年間には縮緬の主産地である西陣を脅かす存在にまで成長したが、許可制の導入や全国的な倹約奨励などで大きな打撃を受けた[5]。寛政元年(1789年)には「反別検査制度」という独自の品質保証制度を設け、文政3年(1820年)には宮津、峰山、久美浜3領内を統一した「大会所」と呼ばれる機屋の統一組織を作るなどして対抗した[6]。1830年代に行われた天保の改革では問屋制の廃止や縮緬機の停止がなされ、丹後の縮緬は再び打撃を受けた[6]

明治・大正時代

明治維新により旧規が撤廃され、一時は粗製乱造に陥ったが、1871年(明治4年)の廃藩置県豊岡県が誕生すると、大野右仲県権参事は丹後縮緬を県の特産品として手厚く保護した。1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会では豊岡県産の絹縮緬が受賞し、1876年(明治9年)のフィラデルフィア万国博覧会にも峰山産の縮緬が出品された[7][3]。しかし、同年に豊岡県が廃止されて丹後地方が京都府の一部となると、西陣以外の同業産地を規制する規則が定められ、丹後縮緬は粗製乱造に陥った[8]。明治末期には品質向上の動きが活発になり、シカゴ万国博覧会パリ万国博覧会、内国勧業博覧会などで丹後地域から多数の受賞者を輩出した[9]1921年(大正10年)には与謝、中、竹野の3郡の組合が合併して丹後縮緬同業組合が発足した[10]

昭和時代以後

1927年(昭和2年)の北丹後地震では約7割[11]の織機が破壊されたが、政府による奨励金や低利資金の提供で産地はすぐに立ち直った[12]1928年(昭和3年)には国練検査制度、1933年(昭和8年)には押印制度が開始され、絹織物の高級ブランドとしての地位が確立された[12]。昭和10年代には黄金時代を築いた[13]1937年(昭和12年)には太平洋戦争が勃発して贅沢品の生産が禁止され、金属供出令により力織機の約6割が失われた[14]。生糸の配給や指定生産は戦後も続き、本格的に復興するのは昭和30年代に入ってからであった[13]高度経済成長期には高級絹織物としての丹後ちりめんがもてはやされ、昭和40年代には年間約1000万反を生産してピークに達したが、その後は徐々に生産量が落ち込み、2001年(平成13年)頃には100万反を切り、2009年(平成21年)には50万反を切った[15]

特徴

1mあたり3,000回程度の強い撚りをかけた緯糸(よこいと)を使って織ることにより、生地の前面にシボと呼ばれる凹凸が生まれる[16]。シボはシワを防ぎ、絹の持つ光沢を鈍く抑え、一般の絹織物には出せないしなやかな肌触りや染めつけの良さを作りだす[1]。その性質上から縮むという欠点があったが、昭和30年代以後には縮みにくい縮緬の研究が進んだ[16]

参考文献

  • 野村隆夫『丹後=ちりめん誌』 日本放送出版協会、1978年、236頁
  • 丹後織物協同組合『丹後ちりめん』 丹後織物協同組合、1978年、23頁
  • 京都府丹後郷土資料館『丹後縮緬』 京都府丹後郷土資料館、1989年、49頁
  • 松岡憲司編『地域産業とイノベーション 京都府丹後地域の伝統・現状・展望』 日本評論社、2007年、247頁
  • 松岡憲司編『地域産業とネットワーク 京都府北部を中心として』 新評論、2010年、262頁

脚注

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外部リンク

  • 1.0 1.1 1.2 松岡(2010)、82頁
  • 2.0 2.1 松岡(2007)、6頁
  • 3.0 3.1 3.2 3.3 京都府丹後郷土資料館(1989)、12頁
  • 4.0 4.1 松岡(2007)、7頁
  • 5.0 5.1 京都府丹後郷土資料館(1989)、15頁
  • 6.0 6.1 京都府丹後郷土資料館(1989)、17頁
  • 松岡(2007)、11頁
  • 京都府丹後郷土資料館(1989)、18頁
  • 松岡(2007)、18頁
  • 京都府丹後郷土資料館(1989)、20頁
  • 京都府丹後郷土資料館(1989)、22頁によれば壊滅した機台は80%以上
  • 12.0 12.1 松岡(2007)、24頁
  • 13.0 13.1 京都府丹後郷土資料館(1989)、22頁
  • 松岡(2007)、24頁
  • 松岡(2010)、83頁
  • 16.0 16.1 京都府丹後郷土資料館(1989)、26頁