「上田朝直」の版間の差分
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上田 朝直(うえだ ともなお、明応3年(1494年)[1] - 天正10年10月3日(1582年10月19日))は戦国時代の武将。武蔵松山城主。上田氏庶流の上田政広(安独斎蓮好・上野介、元亀2年8月1日没)の子とされ、母は難波田憲重の姉妹。上田長則、上田憲定の父。娘(蓮覚院)は北条氏勝の妻[2]。通称・又次郎、左近大夫、能登守。出家して安独斎宗調。暗礫斎。
はじめ扇谷上杉家に仕えて、太田氏宗家を継ぐために岩付城に入った太田資正に松山城を譲られたという。だが、この直前に扇谷上杉家は後北条氏に滅ぼされたために、朝直も後北条氏に従った。行政手腕に優れており、北条氏康から信任を受けて独自の領国経営を許されたという。天文19年(1550年)ごろに安独斎と号している。だが、永禄2年(1559年)頃には、関東へ出兵して来た上杉謙信に呼応し北条氏を離反している。永禄4年(1561年)に謙信が関東から撤兵すると、再び北条氏に帰参を許されているが、責任を問われて本貫地であった秩父郡に移される。その後、永禄12年(1569年)に武田信玄と三増峠の戦いで戦うなど、武功を評価されて松山城主に戻され、また上田宗家を相続している。晩年は子の上田長則に家督を譲って隠居した。
脚注
参考文献
- 『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2006年、ISBN 4490106963