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細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将政治家室町幕府管領細川氏の本家京兆家の当主。幼名は弥九郎。はじめ武蔵守、後に相模守[1]

足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波讃岐伊予など四国地方における南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属す。管領への就任で幕政を指導し、幼少の足利義満を補佐して半済令の施行や南朝との和睦などを行う。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変で失脚するが、その後は赦免されて幕政に復帰する。

家系

父は細川頼春で、母は黒沢禅尼。妻は持明院保世の娘で、室町幕府3代将軍足利義満の乳母となっているため、義満と同年代の実子が早世していると考えられている。

細川氏を斯波氏畠山氏と並ぶ室町幕府管領の地位に高めたほど、養子に迎えた異母弟の頼元と共に室町時代における、細川氏繁栄の礎として知られる。

生涯

生い立ちから管領就任まで

三河額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町)に生まれる。江戸時代の逸話集『雑々拾遺』に拠れば幼くして聡明さを見せ、『細川三将略伝』に拠れば従兄の細川清氏と力比べをしたなどの幼少時の逸話や、父頼春に伴われ夢窓疎石の法話を聞き感化された事実も知られるが、史料上の初見は足利将軍家の内紛から発展した観応の擾乱における阿波での軍事行動となる。

室町幕府初代将軍足利尊氏に従う父のもとにあったが、正平5年/観応元年(1350年)に阿波国人小笠原頼清が乱に乗じて南朝に属すると、父に代わり阿波に派遣された。阿波在陣中の正平7年/観応3年(1352年)には、南朝の京都侵攻で父が戦死した。頼之は弔い合戦のため軍を率いて上京し、尊氏の嫡子足利義詮に属し、讃岐の軍勢を率いた弟の頼有らと男山合戦に参加して南軍を駆逐する。

京都在陣中に阿波で再び南軍の活動が活発になると、頼之は父の分国を継承し、右馬助に任じられ阿波守護に補任されると、その後数年は領国経営に従事した。南朝側との戦い、阿波の小笠原氏伊予河野氏、国人勢力らとの戦いの中で次第に四国における領国支配体制を固める。中央では尊氏の庶子で義詮の異母兄足利直冬が南朝とも通じ、山名時氏ら反幕府勢力を結集させて京都を脅かし、中国地方から伊予に勢力を及ぼしていた。幕府では義詮を総大将に大規模な直冬征討の軍勢を起こす。阿波の頼之には伊予への発向が命じられ、正平9年/文和3年(1354年)には伊予の豪族河野通盛に代わって伊予の守護に補任される。

翌年に義詮の軍勢が進発するが、越前守護斯波高経の離反で直冬勢に京都を奪還され、頼之は引き返した義詮と共に京都奪還に加わり、摂津神南合戦に加わる。南軍駆逐後は従兄の清氏と共に賢俊を訪ねるなど、しばらく京都に滞在しており右馬頭に任じられている。翌正平11年/延文元年(1356年)には再び直冬征討軍が起こされる。頼之は備後守護に補任され大将として九州で勢力を持っていた直冬の追討指揮を命じられた。この時頼之は闕所処分権を将軍尊氏に拒否され、就任を固辞し阿波へ下国しようとするが、清氏に説得されて帰京したという。

阿波には有力被官新開氏守護代とし、南軍への対処とした頼之は中国地方へ発向した。備前備中備後安芸、伊予など数カ国を統轄し、各地で軍勢催促や感状授与など軍事指揮権のほか、所領安堵や守護権限など行政職権を行使している。正式な幕職であるかは不明だが、頼之は軍事指揮者として「中国大将」と呼ばれているほか、地方統轄者としては「中国管領」と呼ばれており、長門探題として中国地方で影響力を及ぼした直冬に対抗させる意図があったとも考えられている。

頼之が直冬勢力を逼塞させ中国地方を平定している頃、中央では将軍尊氏が死去した。義詮が2代将軍となり、従兄の清氏が執事職に任命されていた。正平17年/貞治元年(1362年)に清氏は斯波氏佐々木道誉らとの政争で失脚し、南朝に属して阿波へ渡った。3月に頼之は将軍義詮から清氏討伐を命じられ、7月に讃岐へ移った清氏勢に対し、頼之は宇多津(香川県綾歌郡宇多津町)の兵を率いて白峰城でこれを破った。清氏はこの戦いで戦死している。

清氏討伐中に直冬勢力は再び活動するが、大内弘世や山名時氏らが幕府方に帰服しており、直冬勢力は鎮圧された。時氏の説得工作には頼之も関わっているとも言われる。中国地方が安定すると頼之は中国管領を解任され細川氏としても中国地方の分国を失ったが、頼之は讃岐・土佐の守護を兼ねて四国管領に任じられ、河野通朝を追討して四国を平定した。

幕府の管領となっていた斯波義将と父の斯波高経が道誉らの策謀で失脚(貞治の変)すると頼之は幕府に召還され、道誉、赤松氏ら反斯波派の支持や鎌倉公方足利基氏の推挙で正平22年/貞治6年(1367年)の義詮の死の直前、執事(管領)に就任した。

管領時代の執政

管領となった頼之は、佐々木道誉や赤松則祐をはじめ反斯波派の支持を得て、就任当時11歳の3代将軍足利義満を補佐し、官位の昇進、公家教養、将軍新邸である花の御所の造営など将軍権威の確立に関わる。執政を開始した頼之は、内政面では倹約令など法令の制定、正平23年/応安元年(1368年)には公家や寺社の荘園を保護する半済令応安大法)を施行する。

建徳元年/応安3年(1370年)8月には、北朝において後光厳天皇が実子緒仁親王(後円融天皇)への譲位を内々に諮問すると、後光厳天皇の兄の崇光上皇が実子の栄仁親王が正嫡であると主張したため皇位継承問題が発生した。頼之は事態収拾は聖断によるべきと深入りを避けつつも天皇側を支持するが、上皇側は義詮の正室で義満の継母渋川幸子らに運動して対抗すると、頼之は光厳院の遺勅を示して介入を封じた。またばさらと呼ばれる華美な社会風潮を規制する。

さらに比叡山など伝統的仏教勢力と、五山の南禅寺など新興禅宗勢力の抗争からも政治問題が発生する。天龍寺住職春屋妙葩の発議で進められていた南禅寺の楼門建造を幕府は助成していたが、南禅寺と園城寺の抗争から南禅寺僧定山祖禅が著作において天台を非難すると、叡山側がこれに猛抗議して朝廷に定山祖禅の流罪と楼門の破却を求めた。山門側が神輿を奉じて入京すると、頼之は内裏を警護させ強訴を阻止し、朝廷の要請もあり定山祖禅は流罪に処したが楼門造営は続行させた。山門側は尚も破却を求めて強訴を続け、朝廷や諸将も山門を恐れたため遂に屈し、7月には楼門撤去を決定する。五山側では春屋妙葩が住職を辞するなど幕府の裁定に抗議し、五山側とは溝が生じることとなった。

対南朝政策では交渉を進め、正平24年/応安2年(1369年)に楠木正儀を足利方に寝返らせる工作に成功し[注釈 1]、建徳3年/応安3年には個人的交友もあった今川貞世(了俊)を九州探題に任命、九州へ派遣して懐良親王ら南朝勢力を駆逐させ、九州制圧を後援した。

康暦の政変

頼之の施政は、政敵である斯波氏や山名氏との派閥抗争、渋川幸子や寺院勢力の介入、南朝の反抗などで難航した。また、今川了俊の九州制圧も長期化していた。こうした中、頼之は辞意を表明して義満に慰留されることで信任を回復することも何度かあった。天授5年/康暦元年(1379年)、細川氏が紀伊の南朝征討に失敗すると、義満は山名氏清らに軍勢を与えて征討を行わせる。さらに頼之と斯波氏や土岐頼康に対して兵を与えたところ、諸将は頼之の罷免を求めて京都へ兵を進め、斯波派に転じた京極高秀らも参加して将軍邸を包囲した。この康暦の政変と呼ばれるクーデターの結果、頼之は義満から退去命令を受けて一族を連れて領国の四国へ落ちて行き、その途上で出家した。後任の管領には斯波義将が就任し、幕府人事も斯波派に改められ、一部の政策は覆された。

斯波派は頼之の討伐を望んだが、これは義満が抑えた。しかし、政変を知った河野通堯は南朝から幕府に帰服すると、斯波派と結んで頼之討伐の御書を受け、頼之と対抗した。攻撃された頼之は、管領時代に弟の頼有に命じて国人の被官化に務めており、その力で通堯や細川清氏の遺児の正氏らを破り、弘和元年/永徳元年(1381年)には通堯の遺児通義と和睦し、分国統治を進めていった。

復権と晩年

頼之の弟の細川頼元は幕府に対して赦免運動を行い、元中6年/康応元年(1389年)の義満の厳島神社参詣の折には船舶の提供を手配し、讃岐の宇多津で赦免される。元中8年/明徳2年(1391年)には斯波義将が義満と対立して管領を辞任し、頼之は義満から上洛命令を受けて入京する。後任の管領に頼元が就任すると、頼之は政務を後見し、宿老として幕政に復帰した。

義満は頼之の管領復帰を望んでいたが、頼之は既に出家していたためにこれを辞退した。代わりに頼元を管領とし、頼之をその補佐としたのである。このため義満は、幕府役職にない頼之が幕政に参画しやすくするために、将軍の私的な会合に近かった御前沙汰を開催して僧侶である頼之を加えた形式で幕府の重要事項の審議を行った。なおこの先例は、後に義満が嫡男の足利義持に将軍職を譲って出家した後に、自らが幕府の会議を主宰するためにも用いられた。

元中7年/明徳元年(1390年)、備後が乱れるにおよび、義満は頼之を備後国守護に任じてこれを平定させた[1]。また、翌年の明徳の乱では幕府方として山名氏清と戦った。同年には京都に召して幕政に関与させた[1]が、元中9年/明徳3年(1392年)にはいって風邪が重篤となり、3月に死去。享年64。

葬儀は義満が主催して相国寺で行われた。戒名は法号を用いて、永泰院殿桂巌常久大居士。

人物

  • 文化的活動としては和歌や詩文、連歌など公家文化にも親しみ、頼之が詠んだ和歌が勅撰集に入撰している。また、軍事作法について記した書状も存在している。幼少時に禅僧である夢窓疎石から影響を受けたとされ、禅宗を信仰して京都に景徳寺地蔵院、阿波の光勝寺などの建立を行う。
  • 京都での頼之の邸は、火事見舞いの記録などから六条万里小路(京都市中京区)付近と考えられており、幕府が花の御所(室町第、京都市上京区)へ移されるまでは出仕に近い場所であった。
  • 管領を辞任して出家すると言い義満に引き止められたり、評議の場で故意に義満の怒りを買い、将軍の権威を高めようとしたとされる。
  • 『細川家譜』等に拠れば、明徳の乱に従軍した折、路傍の寺院で供え物を拝借したという。細川家ではこれを吉例とし、代々元旦には饗膳を供えたという。
  • 10歳の頃、「主人の御用で使いにゆく途中で親の仇に出会ったらどうするか」が話題になったとき、たちどころに「親の仇を持つものはなによりも仇討ちを遂げるべきであり、そのあいだは主に仕えるべきではない」と述べたという[2]

ほか

資料・研究書・論文

  • 太平記』 - 南北朝時代を書く古典軍記物語。頼之が管領に就任する巻を以って物語を終えている。また、頼之自身も編纂に携わっているとも言われる。
  • 『細川頼之記』 - 内容の信憑性には疑問が持たれている。
  • 細川潤次郎『細川頼之補伝』1991年(明治24年)
  • 猪熊信男『細川清氏と細川頼之』鎌田共済会、1959年。
  • 小川信『細川頼之』吉川弘文館<人物叢書>、1972年。ISBN 4642051759

墓所・木像・肖像画

墓所は頼之が建立した寺である京都府京都市西京区の衣笠山地蔵院、山型の自然石が墓石として残されている。地蔵院には頼之の法体の肖像画や木像、頼之夫人の肖像画も所蔵されている。

脚注

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注釈

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参照

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関連項目

参考文献

外部リンク

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  1. 1.0 1.1 1.2 時野谷(1979)p.555
  2. 高野(1997)p.76。原出典は小川信『細川頼之』


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