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少帝弁(しょうていべん)は、後漢の第13代皇帝。姓名は劉辯(新字体:劉弁)。
霊帝の崩御に伴い、生母何太后とその兄である大将軍の何進により擁立された。しかし、何進が宦官により暗殺され、さらに宦官も袁紹によって皆殺しにされたため、その時期に洛陽に入ってきた董卓によって、異母弟の劉協(献帝)が擁立され廃位となり、弘農王に封じられた。
その後、董卓の専制に反発した諸侯による反董卓連合が起こった時、連合軍に擁立されることを恐れた董卓に命じられた李儒によって、長安遷都前に毒殺された。後に懐王と弘農王としての諡をされたため、実質的に皇帝とは認められなかったことになる。三国志の王朗伝によると、後に曹操が劉弁の墓前を通ったとき、皇帝陵として参拝すべきか否か部下に尋ね、董遇の「皇帝ではないと見なされるので参拝は不要」という意見に従っている。
在位わずか5ヶ月に過ぎないが、地方豪族の一人に過ぎなかった董卓に帝位を廃されたことは、事実上後漢王朝が滅亡したことを意味している。
『三国志演義』では、劉協よりも若干年上の少年である。劉協の方が聡明さがあり、逆に劉弁は暗愚であったために、廃位された後、何太后と共に李儒により高所から突き落とされ、殺害されることになっている。
なお、三国志演義やその派生作品などでは幼帝扱いにされているが、即位当時の年齢17歳というのは、実は後漢歴代皇帝の即位時年齢の中で4番目の高年齢にあたる(劉弁より上位の3人は初代 - 3代であり、4代目以降では最年長)。こうした事実は、後漢朝の歴代皇帝がいかに幼く、権力のない皇帝ばかりだったかを証明するものである。