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テンプレート:Infobox journalist 宮崎 緑(みやざき みどり、1958年(昭和33年)1月15日 - )は、日本のジャーナリスト、国際政治学者、国際政策学者である[1]。1982年(昭和57年)から6年間、テレビのニュース番組「ニュースセンター9時」(NHK)のキャスターを務め、日本の女性ニュースキャスターの草分けとしても知られる[1]。千葉商科大学政策情報学部教授、同学部長。
経歴
湘南白百合学園小学校、横浜国立大学教育学部附属鎌倉中学校、神奈川県立湘南高等学校を経て、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。同大学院法学研究科修了(法学修士)。この大学生時代の頃に、NHK教育テレビジョンの中高生向けの教養番組「ジュニア文化シリーズ・サイエンスレーダー」のアシスタントを務めていた。
1982年(昭和57年)4月、NHK『ニュースセンター9時』の初の女性ニュースキャスターに就任し、その後6年間に渡って同職を務めた。
東京工業大学社会工学科講師を経て2000年(平成12年)、千葉商科大学政策情報学部助教授となり、2006年教授、2010年(平成22年)学部長に就任した。さらに、2001年(平成13年)より鹿児島県奄美市にある地域文化の情報発信拠点奄美パーク園長と、その付属施設である田中一村美術館の館長を兼任するほか、神奈川県教育委員、ソニー教育財団理事、昭和シェル石油株式会社監査役などもつとめている。
元夫である弁護士・椿康雄(オー・エイチ・ティーの仕手事件に関与し失踪したため離婚)との間に1男。
出演
- NHK教育『ジュニア文化シリーズ サイエンスレーダー』(1981年)
- NHK総合『ニュースセンター9時』(1982年4月~1988年3月)
- 『NHKモーニングワイド』(1988年4月~1989年3月)
- テレビ朝日 『ニュースフロンティア』(1992年4月~1994年3月)
著書
単著
- 『宮崎緑の社会あんぐるよりどりみどり』(日本生産性本部, 1983年/講談社文庫 1988年「キャスター駆け出す」に改題)
- 『わたしが会ったアジアの子ども - NHK海外たすけあいキャンペーン取材で』(偕成社 1984年)
- 『NHKを10倍楽しむ法』(講談社 1984年/講談社文庫 1987年「はい、ニュースキャスターです」に改題)
- 『From me to you - お便りありがとう』(文化出版局 1984年)
- 『夢を拓く - Talk journal』(講談社 1987年)
- 『私のリアルタイム』(読売新聞社 1989年)
- 『私のリアルタイム2』(読売新聞社 1993年)
- 『おもいっきり翔んで』(読売新聞社 1994年)
- 『女の耳目』(読売新聞社 1996年)
共著
- (赤木完爾・小此木政夫編)『冷戦期の国際政治』(慶應通信 1987年)
- (アジアの総合安全保障研究グループ)『アジアはどう変わるか - 90年代のアジアの総合安全保障』(日本経済新聞社 1993年)
- 加藤寛、宮崎緑 2009 『福沢諭吉なら、今、こう言う 加藤寛インタビュー 究極のベストセラー『学問のすすめ』に学ぶ日本再生への提言』星雲社
翻訳
- リチャード・ニクソン『ノー・モア・ヴェトナム』(講談社 1986年)