「太田茶臼山古墳」の版間の差分

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2014年8月23日 (土) 11:03時点における最新版

テンプレート:日本の古墳 太田茶臼山古墳(おおだちゃうすやまこふん)は、大阪府茨木市太田3丁目にある前方後円墳

宮内庁により「三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ)」として第26代継体天皇に治定されている。

概要

ファイル:Oodakf13.jpg
空中写真から見る太田茶臼山古墳
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

墳長はおよそ230mで、後円部の径はおよそ140m、前方部の幅はおよそ150m。馬蹄形の周濠が巡るが、かつては二重濠であったと推定する向きもある。周囲には陪冢と考えられる小古墳も点在している。陵名「三島藍野陵」の「藍」は、三島島上郡島下郡に分かれる以前の広範囲の地名であり、この古墳の北西には安威(あい)という地名が残り、安威川が流れる。

規模

  • 墳丘長:226メートル
  • 前方部幅:147メートル
  • 前方部長:117メートル
  • 前方部高:19.8メートル
  • 後円部径:138メートル
  • 後円部高:19.2メートル
  • 濠幅:約28-33メートル

発掘

昭和61年(1986年)には外堤の、平成14年(2002年)には墳丘本体の護岸工事を前提とした発掘調査が宮内庁によって行われており、大量の円筒埴輪の他、馬形埴輪、甲冑形埴輪、水鳥形埴輪、須恵器片などが出土している。宮内庁管理区域外では大阪府教育委員会や茨木市教育委員会によって発掘調査が行われており、外堤上の埴輪列や、陪冢に使用されていたと見られる形象埴輪などが出土している。

治定

ファイル:Oodakf6.jpg
くすのき公園内にある陪冢

『日本書紀』では、継体天皇25年(531年)2月に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)で崩御したとあり、同じ年の12月に藍野陵に葬られたという。『古事記』は三島の藍の御陵としている。藍原の地形は、継体天皇が没した当時は原野であったであろう。『延喜式』には、摂津国嶋上郡にあると書いているが、これは平安時代前期の陵墓掌握であって、それが必ずしも真陵であるかどうかは別である(太田茶臼山古墳がある茨木市は嶋下郡にあたり、後述の今城塚古墳のある高槻市は嶋上郡にあたる)。

江戸時代中期に継体天皇陵に比定されたが、文献史学の立場からは、延喜式記載の所在地と異なるという問題点が早くに指摘されていた。さらに、出土埴輪の特徴は、5世紀中頃のものと考えられているもので、考古学的にも527年 (古事記) ~ 534年 (日本書紀或本云) に没した継体天皇の陵では在り得ないという意見が研究者の大勢を占める。これに対し、東へ1.5キロ程の所に所在する今城塚古墳は、所在地および考古学的に推定される築造年代が文献に記される継体天皇陵としての条件に合致する上、当該期の古墳の中では隔絶した規模を持っており、こちらこそが真の継体天皇陵と考えられている。

なお、現在知られている当古墳出土埴輪の殆どは大阪府高槻市に所在する新池遺跡で製作されたものである事が明らかとなっている。

脚注

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関連項目

外部リンク

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