「政治将校」の版間の差分
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政治将校(せいじしょうこう、テンプレート:Lang-en-short)は、主に一党独裁国家において、政府および一体となる党が軍隊を統制する為に各部隊に派遣した将校のことを指す。政府の政治原則を逸脱する命令を発する軍司令官を罷免する権限を有していることもある。軍とはまったく異なる指揮系統に属し、プロパガンダ、防諜、反党思想の取り締まりを担う軍隊内の政治指導を任務とし、広義のシビリアンコントロールである。なお、政治士官 、コミッサール(イラク・バアス党の様に体制派寄りの非軍人(官僚)が担った例もある) 、または軍隊以外の組織に置かれるものを含めて政治委員(ポリトルーク)、政治指導員、政治指導官と呼ばれる場合もある。
目次
ソビエト連邦の政治委員・政治将校
政治将校の制度はロシア革命時にウラジミール・レーニンが考案したことが始まりとされる。
成立当初の赤軍には正規の軍事教育を受けた者はほとんど存在せず、「武装された労働者の革命軍」から「革命を防衛するための国軍」へと再編制するのが急務であった。革命政権は旧ロシア帝国軍の将校を「軍事専門家」として部隊に配置することとしたが、敵階級でありブルジョワである将校達にも協力する意思はほとんどなく、職務放棄が相次いだ。レフ・トロツキーは、レーニンによる帝国軍人の処刑を止めさせてノウハウを受け継ぐために、また軍人を監視する目的で政治将校制度を創設することを進言し、採用された(アラン・ブロック『ヒトラーとスターリン』)。その結果、1918年4月に最高軍事会議直属のコミッサール(政治委員)が全軍に配置された。政治委員は部隊の命令に副署する権限が与えられ、政治委員の副署のない命令には部隊は服従してはならないこととされた。また将校の抗命を抑えるため「射殺を含めあらゆる手段によって、反革命分子に対して非情に対処する権限」を有するとトロツキーによって宣言された。
本来政治委員の職務は軍内部のプロパガンダと政治的忠誠心の保持であり、作戦を司る将校とは権限や指揮系統が完全に分離されていた。しかし政治委員は革命権限の名の下に将校を圧倒し、頻繁に作戦事項に介入して混乱を招いた(二元統帥問題)。こうした事態を受けて1931年に一旦政治委員制度は廃止された。しかし共産党が軍隊を解放したわけではなく、軍内部のプロパガンダ活動は「指揮官政治補佐」へと引き継がれた。これがいわゆる「政治将校」である。しかし赤軍内部の大粛清が行われると、党員将校を補完する目的ですぐに政治委員制度へと復帰した。しかしそれにより二元統帥問題も再発、また粛清によって実務経験・実務能力のある将校や下士官が大幅に減少したことと重なり、第二次世界大戦における赤軍の指揮能力の低下と緒戦の大損害の一因となった。
戦後ソビエトの指導者となったニキータ・フルシチョフ、レオニード・ブレジネフなどは大戦中、政治委員として辣腕を振るった。ドイツ軍最高司令部は、政治委員を一般捕虜から「隔離」して「処分」すべしとのいわゆるコミッサール指令(Commissar Order)を出していたために、捕虜となった多くの政治委員が前線で即決、あるいは後送された後に処刑された。また、作戦が失敗すると政治委員は上層部から強く責任追及され、処刑される者もいた。そのため、政治委員はしばしば部隊に無理な作戦行動を強いて多大な犠牲を出すこともよく見られた。
その後戦争の危機が去ると政治委員制度は再び廃止され政治将校制度が復活した。結局ソビエト連邦の崩壊までソビエト軍には政治担当部署が存続した。ソ連崩壊後、政治将校は無用の長物として当然真っ先に削減の対象となった。しかし第1次チェチェン戦争後、状況は少し変わった。チェチェン紛争時、マスコミを巧みに利用したチェチェン人側のプロパガンダのため、ロシア連邦軍内では抗命や脱走が相次ぎ、国民中に反戦運動が高まる等、厭戦気運が蔓延した。軍当局は、兵士の心理戦防護と戦争の目的を宣伝する必要性を痛感し、政治将校を復権させつつある。
なお、政治将校は監視や作戦への介入だけではなく、時に将兵のカウンセリングや読み書きの教育なども行い、また正規将校の腐敗や横暴に対する内部告発の窓口的役割も兼ねており、その存在はまったくの有害無益ではない。
中華人民共和国の政治委員
テンプレート:Seealso 中国人民解放軍では、紅軍当初から党の軍隊として組織された経緯から、一般軍人と政治委員の関係は良好であった。1927年の南昌蜂起以来、軍には党代表が置かれていたが、1929年の「テンプレート:仮リンク」において毛沢東の主導により「政治委員」に改称され、強力な政治委員制度が成立した[1]。政治委員にはソビエト軍同様に作戦命令に対する副署権が与えられた。さらに人民解放軍の特徴は、軍内部に共産党支部が設置され、この党支部が作戦事項を決定するとされたことである。これにより共産党自身が作戦の立案をも行うというソビエト軍を遥かに上回る強大な権力が党に与えられたのである。政治委員は軍内党支部の書記(責任者)を兼ねていたため、ソビエト軍では不正行為とされた作戦に対する政治委員の介入が公然と認められた。1930年の「中国工農紅軍政治委員工作暫行条例」において政治委員の職権が明記され、政治面では単独で命令を発することができ、軍事面でも副署権が与えられるとともに、軍指揮官と対立した場合にはその命令を停止させることができた[2]。
しかし共産党の基本戦術が中国全土に「解放区」を打ち立て支配する方式であったため、解放区を管理する各地の軍が政治委員(軍委員会書記)の支配下に置かれることになった。これは現在の中国の地方制度支配に連なっていくことになる。
現在でも、政治将校は、部隊長の次席として政治工作を担当し、第二梯隊や予備隊を指揮する職責にある。
ベトナム社会主義共和国の政治委員
ベトナムでも、ベトナム人民軍が当初から党の軍隊として組織され、また、党・軍創設初期に中国の影響を強く受けたことから、中国に準じた強力な権限を有する政治委員(Chính uỷ、政委)制度が設けられている。
ナチス・ドイツの国家社会主義指導将校
1943年11月22日、アドルフ・ヒトラーはドイツ国防軍に対するイデオロギー支配の強化が戦局を転回するとして、国防軍部隊にテンプレート:仮リンク(NSFO)を配置する制度を導入した[3]。ヒトラー暗殺未遂事件以降には海軍にも配置され、ナチ党による国防軍支配が強化された。
その他の政治将校
そのほか蒋経国時代の中華民国軍、革命後にイスラム主義国家となったイラン軍にも政治将校制度が存在している。
脚注
- ↑ 滝口(2000年)、277ページ。
- ↑ 滝口(2000年)、278ページ。
- ↑ テンプレート:Cite book、239p
参考文献
- 川島弘三 『社会主義の軍隊』 講談社現代新書、1990年
- 滝口太郎 「党軍関係と中央統制の物理的基礎」(天児慧編『現代中国の構造変動4 政治-中央と地方の構図』東京大学出版社、2000年、所収)