「高岳親王」の版間の差分
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高岳親王(たかおかしんのう、延暦18年(799年) - 貞観7年(865年)?)は、平安時代初期の皇族・僧侶。法名は真如。平城天皇の第三皇子。甥に在原業平がいる。品位は四品。
経歴
大同4年(809年)父・平城天皇が譲位して嵯峨天皇が即位すると皇太子に立てられるが、翌大同5年(810年)薬子の変に伴い皇太子を廃される。弘仁13年(822年)四品に叙せられ名誉回復がなされるが、出家し真如と名乗った。奈良の宗叡・修円、また弘法大師の弟子として修行した。弘法大師の十大弟子の一人となり、高野山に親王院を開いた。阿闍梨の位をうけ、また『胎蔵次第』を著した。承和2年(835年)空海が入定すると、高弟のひとりとして遺骸の埋葬に立ち会っている。
斉衡2年(855年)地震により東大寺大仏の仏頭が落ちたとき、東大寺大仏司検校に任じられ修理を行う。老年になり、入唐求法を志して朝廷に願い出る。貞観3年(861年)親王の一行23人は、奈良より九州に入り、翌貞観4年(862年)大宰府を出帆して明州(現在の寧波)に到着する。貞観6年(864年)長安に到着する。在唐40年になる留学僧円載の手配により西明寺に迎えられる。しかし、当時の唐は武宗の仏教弾圧政策(会昌の廃仏)の影響により仏教は衰退の極にあったことから、親王は長安で優れた師を得られなかった。このため天竺行きを決意。貞観7年(865年)皇帝の勅許を得て従者3人とともに広州より海路天竺を目指し出発したが、その後の消息を絶った。
16年後の元慶5年(881年)在唐の留学僧・中瓘らの報告で親王は羅越国(マレー半島の南端と推定されている)で薨去したと伝えられている[1]。虎の害に遭ったという説もある。現在、マレーシアのジョホール・バルの日本人墓地には、親王院が日本から御影石を運んだ親王の供養塔が建立されている。