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テンプレート:Infobox 組織 テンプレート:日本の新左翼 東アジア反日武装戦線(ひがしアジアはんにちぶそうせんせん)は、1970年代に三菱重工爆破事件など連続企業爆破事件等の爆弾による武装闘争を実行した日本の武闘派左翼テロリストグループ。反日亡国論、アイヌ革命論などを主張していたことから、捜査機関は、反日アナキズム思想を持つ「極左暴力集団」と当初から見なしていた[1]。
目次
来歴
法政大学Lクラス闘争委員会
1970年春、大道寺将司が法政大学文学部史学科在学中に結成した「Lクラス闘争委員会」が源流である。「Lクラス」は大道寺が所属していた大学のクラスのことで、党派的にはノンセクト・ラジカルに分類される。大道寺が他学科の哲学科や国文科(現在の日本文学科)にも参加を呼びかけた結果、一時は百数十名にも膨れ上がった。この頃からのメンバーに片岡利明、協力者とされたA、Bらがいた。全共闘運動の終息とともにLクラス闘争委員会も自然消滅した。大道寺、片岡、Aも大学を中退した。
「研究会」
大道寺とLクラス闘争委員会の主要メンバーが中心となって、1970年8月に「研究会」を旗揚げした。この「研究会」では、「日本帝国主義」がアジアで行ってきた「悪行」について集中的に学習し、過激な反日思想を醸成させていった。その背景として同年7月7日に出された華僑青年闘争委員会の新左翼各派に対する「決別宣言」から受けた衝撃が大きかった。当時の学習資料として朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』などの書籍が使われた。また、都市ゲリラ戦にも関心を持ち、レジスタンス運動やキューバ革命などの資料などを学習していった。そして、反日運動のために武力闘争を展開しなければならないという考えに収斂されていったが、ゲリラ路線への参加を善しとせず数名が脱落する。そこで、同年11月には大道寺の北海道釧路湖陵高等学校の同級生で、大道寺が高校卒業後に参加していた同高卒業生らからなる社会主義研究会のメンバーであり、当時星薬科大生の大道寺あや子が加わった。 1971年1月には、初の自家製爆弾の実験を行うようになる。
カンパニア闘争の開始
まず手始めに、大衆に訴えるカンパニア闘争の一環として、「日本帝国主義」の象徴となるものを爆破することになった。
これら三つの事件の後、本格的武装闘争に移行することになった。
東アジア反日武装戦線の誕生
1972年12月、「東アジア反日武装戦線」という名称が決まった。ただしこの名称は、全ての反日主義者が共同で使うべきものという認識から、「自分たちのグループ」を表す名称が別途必要であった。彼らは、孤高の存在というイメージから、グループ名を「狼」とした。
1973年は、本格的武装闘争に備えて、爆弾の開発や活動資金の貯蓄に努めた。また、自らの主張を世に訴え、闘争の意義や理念を共有する後続武闘派諸個人・諸グループが、反日武装闘争潮流に合流することを期して、小冊子『腹腹時計』の執筆、出版に着手した(翌年2月に刊行)。
1974年8月14日、昭和天皇が乗車したお召し列車を、鉄橋もろとも爆破しようとした(虹作戦)。しかし、決行直前に人に見られたため未遂に終わった(ただし、当日通ったお召し列車は、彼らが爆弾を仕掛けようとした鉄橋ではなく、貨物車用の鉄橋を通行しており、もし決行されていたとしても暗殺は失敗した可能性が高い)。翌日韓国において、朝鮮総連メンバーの文世光が時の大統領朴正煕を暗殺しようとした事件が発生していた(文世光事件)。この事件の犯人文世光は、黒ヘルと多少の繋がりがあるとされるプロレタリア軍団傘下の高校生組織「暴力革命高校生戦線」出身の朝鮮総連活動家であった。「狼」は、文世光に呼応するために新たな作戦に着手する。
同年8月30日、三菱重工業東京本社ビルで爆弾を破裂させ、8名が死亡、376人が負傷した(三菱重工爆破事件)。これは「狼」の予測をはるかに上回る惨事であったが、これをきっかけに新たに「大地の牙」「さそり」のグループが合流し、翌年5月まで連続企業爆破事件を起こす。
一斉検挙
「東アジア反日武装戦線」のメンバーとして最初に疑われたのは、当時アイヌ革命を唱えていた太田竜であった。まもなく、太田の潔白は証明されたが、公安警察は太田の思想的人脈のどこかにメンバーがいると推定、彼が関係する「現代思潮社」「レボルト社」に狙いを定めた結果、メンバーの斎藤和・佐々木規夫が浮上し、二人を尾行していくうちに芋づる式にグループの他のメンバーが把握されていった。佐々木は偽装転向として創価学会に入信し、毎日法華経をあげるなど熱心な学会員を装ったものの、公安の目をそらすことはできなかった。
1975年5月19日、主要メンバー7名(大道寺夫婦・佐々木・益永・斎藤・浴田・黒川)と協力者とされる看護学生1名が逮捕された。斎藤和は逮捕直後に自殺した。一斉逮捕を逃れた宇賀神寿一と桐島聡は全国指名手配となったが、1982年7月に宇賀神は逮捕された。
その後の東アジア反日武装戦線をめぐる動き
テンプレート:See also 東京地方検察庁は1975年6月28日に起訴したが、日本赤軍によるクアラルンプール事件で佐々木則夫が釈放され、国外逃亡し、日本赤軍に合流。激しい獄中闘争を繰り広げるメンバーらと支援者らの妨害工作により裁判の開始は予定より大幅に遅れた[2][3]。ようやく12月25日より裁判が開始されたが、その後も公判は荒れ、遅々として進まず、そうこうするうちに再び日本赤軍によるダッカ事件が発生、大道寺あや子(将司の妻)と浴田由紀子(斎藤の内妻)が超法規的措置により釈放され、日本赤軍に合流した。
1979年には獄中のメンバー[4]によるとみられる「東アジア反日武装戦線KF部隊(準)」による「腹腹時計特別1号」が地下出版され、なおも反日武装闘争を主張していた。
大道寺将司・益永利明に対しては死刑、黒川芳正に無期懲役が確定。協力者とされる女性についても爆発物取締罰則違反幇助で懲役8年が確定した(1987年に出所)[5]。1982年7月、逃亡していた宇賀神寿一が逮捕され、懲役18年が確定(2003年に出所)。1995年3月24日に浴田由紀子がルーマニア潜伏中に身柄を拘束され、偽造有印私文書行使の容疑で国外退去処分となり日本へ向かう飛行機内で逮捕、裁判で懲役20年の判決が確定している。
連続企業爆破事件の犯人グループと直接の関係はないとされるが、1975年から1976年にかけて北海道を舞台に起きた一連の爆弾テロ事件(1975年7月19日の北海道警察本部爆破事件、1976年3月2日の北海道庁爆破事件など)にも「東アジア反日武装戦線」名義の犯行声明が出された。北海道庁爆破事件の被疑者として起訴された大森勝久(本人は犯行声明の思想に共感した上で犯行については無実を主張)には1983年に札幌地裁で一審死刑判決、1994年に死刑が確定している(再審請求も2007年に却下)。また太田竜や東アジア反日武装戦線に影響を受けたと見られる反日イデオロギーの持ち主が起こしたと見られる爆弾闘争が、1970年代後半に相次いだ。未検挙のものもあるが加藤三郎などが逮捕され有罪が確定している。
なお武装闘争思想の源泉となった太田竜であるが、彼自身は1974年に北海道静内町にあるシャクシャイン像の台座を傷つけた器物破損事件しか起こしていない。太田の思想は1980年代以降は新左翼からエコロジスト、ついでナショナリストに転向し、さらに晩年は「人類は爬虫類人によって支配されている」という陰謀説を唱えるようになった。
現在、佐々木規夫と大道寺あや子は国際指名手配、桐島聡は全国指名手配されている。桐島聡はさそり事件での公訴時効が成立。獄中にいるメンバーは、現在までに、再審請求を出したり、獄中から著書や論文を発表するなどして獄中闘争を行っている。
メンバー
- 狼
- 資本家に苦しめられている被抑圧民衆を過去に絶滅したニホンオオカミになぞらえた。
- 大地の牙
- 国家も資本家もない理想の世界を目標とし、国家や資本家に立ち向かう大地の牙になぞらえた。
- さそり
- 自らの小さな組織の猛毒で大きな建設資本を倒すサソリになぞらえた。
特徴
行動上
- 内ゲバ的体質の否定
- 公然・非公然部門の未分離
- 集権的機構の不存在
- 「中央委員会」といった集権的組織は存在しなかった。三班はリーダー同士が連絡を取るだけで、メンバー同士の交流はなく、思想的立場も微妙に異なった。
- 合法的資金源の確保
- 赤軍派などがM作戦(金融機関強盗)など違法手段を用いて資金調達をしていたのに対し、メンバーは社会人として働いて給与を得て、給与の半分を活動資金に投じることで合法的に資金源を確保した。なお、東アジア反日武装戦線は資金は自らで獲得するのが鉄則としながらも、一方で手法と対象は充分検討した上での資金強奪を完全否定はしていない。
- 綱領を持たなかったこと。
思想上
1960年代以後、マルクス・レーニン主義を掲げる日本の新左翼党派は武装闘争など急進主義的な活動を行ったが、その大多数は自らを前衛党と規定して、公然組織による宣伝活動や党員の獲得、労働組合活動なども行い、最終的には労働者や革命実現の主体となる党になる事を主張していた。これに対して東アジア反日武装戦線は、アイヌおよび朝鮮半島への日本による「侵略史」を学習するなかで、独自の「反日思想」を形成していった。アナキズム的影響の強いアイヌ革命論により、現在の日本帝国主義の破壊を主張し、その後の新社会への言及は少ない。
『腹腹時計』では日本の一般大衆を「日帝本国人」と規定し、「反日闘争」に加担しない日本の一般大衆を「日帝」の成員として断罪した。また日本帝国主義と非和解的に闘う、真の革命的主体は山谷、釜ヶ崎、横浜寿町などの流動的下層労働者だとも述べた。公然組織を持たない純粋な地下秘密組織であり、市民社会からの広範な支持を受けることは、ほとんど考慮していなかった。
多数の死傷者を出すに至った三菱重工爆破事件後に出された犯行声明では、「爆死し、あるいは負傷した者は、無関係の一般市民ではない。植民者である。」と「爆破作戦」を正当化した。75年5月19日の「狼・さそり・大地の牙」メンバーの一斉逮捕後、各メンバーは裁判の場で、また自身の著作などで自己批判を行ない、被害者に深い謝罪を繰り返し表明した。
後年、「狼部隊」の実質的リーダーであった、大道寺将司はアイヌの支援者に宛てた手紙の中で、「虹作戦」に頓挫し、消尽と無力感を痛切に感じていた「狼」メンバーたちは朴正煕暗殺の実行者であり、韓国の獄中にある在日朝鮮人・文世光に「事実行為」で連帯し、一刻も早く呼応しなければならないとの焦りから、「虹作戦」で使用されなかった、威力が甚大な荒川鉄橋爆破のための爆弾を流用し、爆弾を建物ではなく、歩道に設置するといった杜撰な作戦計画を実行してしまったと総括した[6]。 テンプレート:Quotation
模倣犯などその後の動き
- 1970年代後半以降、北海道庁爆破事件や神社本庁爆破事件といった「東アジア反日武装戦線」の同調者ないし後継者を称する爆弾闘争が引き起こされたこともあるが、内実が全くないにもかかわらず「東アジア反日武装戦線」を騙り、脅迫行為に及んだ事例もある。例えば、一斉逮捕前の1975年3月に東京都立川市で、小学4年生が誕生日会のいたずらで110番に爆破予告の電話をし、仲間の小学1年生が「丸の内のオオカミ」と名乗り、逆探知で捕まった事件のような、過熱報道が生み出したと思われるようなものもあった[7]。
- 1985年3月末に国鉄(当時)横浜駅近くの複数の大型スーパーマーケットに「プラスチック爆弾で店を爆破する-東アジア反日武装戦線」といった内容の脅迫状が店内で置かれる事件が発生した。一連の事件では40通置かれたり脅迫電話があったが金銭を要求するものもあった。警察が警戒していたところ3月30日にニチイ横浜店(当時)の階段や便所に脅迫文を置いていた横浜市緑区在住の男子中学3年生を現行犯逮捕した。動機は当時社会で問題になっていたグリコ・森永事件の企業連続脅迫事件に触発され、金銭をゆすり取りとろうとしたものであったが、図書館で知った「東アジア反日武装戦線」の手口もまた模倣したものだという[8]。
東アジア反日武装戦線を描いた作品
- 桐山襲『パルチザン伝説』河出書房新社(1984年) - 東アジア反日武装戦線をモチーフとした小説。のちに自身で『虹のクロニクル』の題で戯曲化。
- 松下竜一『狼煙を見よ』河出書房新社(1987年) - ノンフィクション
- 鐘下辰男『あるいは友をつどいて』(2004年) - 演劇
- 門田隆将『狼の牙を折れ 史上最大の爆破テロに挑んだ警視庁公安部』小学館(2013年) - ノンフィクション
脚注
参考文献
- 大道寺将司『大道寺将司獄中書簡集 明けの星を見上げて』(れんが書房新社)、『死刑確定中』(太田出版)
- 片岡利明『爆弾世代の証言 東京拘置所・死刑囚官房から』(三一書房)
- 黒川芳正『獄窓からのラブレター—反日革命への戦旅』(新泉社)
- 宇賀神寿一『僕の翻身[ふぁんしぇん] 宇賀神寿一 最終意見陳述集他』(東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃と闘う支援連絡会議)
- 東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃と闘う支援連絡会議編『でも私には戦が待っている 斎藤和 [東アジア反日武装戦線 大地の牙]の軌跡』(風塵社)
- 松下竜一『狼煙を見よ-東アジア反日武装戦線“狼”部隊』
- 東アジア反日武装戦線KF部隊(準) 『反日革命宣言 東アジア反日武装戦線の戦闘史』(鹿砦社)
- 東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃と闘う支援連絡会議 『反日思想を考える 死刑と天皇制』(軌跡社)
- 東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃と闘う支援連絡会議編 『あの狼煙はいま』(インパクト出版会)