韋昭のソースを表示
←
韋昭
移動先:
案内
、
検索
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
'''韋 昭'''(い しょう、? - [[273年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の政治家・[[儒学者]]・[[歴史家]]。[[字]]は'''弘嗣'''。[[揚州]][[丹陽]]郡雲陽県([[江蘇省]][[丹陽市]])の人。子は韋隆。 『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』「呉書」では'''韋曜'''と記載されている。これについて、[[裴松之]]は注の中で、[[西晋|晋]]の[[司馬昭]]と[[諱]]が同じであることを避けるための([[避諱]])とするが、[[清]]の[[銭大昕]]は、『三国志』では「昭」の名を持つ人物が多数見られ、「[[薛綜]]伝」の中には、韋曜と連名で'''周昭'''なる人物が挙げられている箇所があることから、元々「韋曜」という名も持っていたのであろうと推測する。 == 略歴 == [[丞相]]府の役人をはじめに、[[西安県|西安]]県令・[[尚書]]郎を務め、太子中庶子に昇進して当時の[[皇太子]]である[[孫和]]に仕えた。この頃に孫和の命を受けて、『博奕論』を著して[[博奕]]([[すごろく]])を批判している。 [[孫亮]]が即位すると、[[諸葛恪]]の推薦を受け[[太史令]]となり、[[華覈]]や[[薛瑩]]らと共に『呉書』の編纂を担当した。[[孫休]]には盛沖と共に侍講への就任を望まれたが、政治を専断していた側近の[[張布]]に阻止された。 [[孫皓]]の代には当初は寵愛を受け、高陵亭侯・[[侍中]]・左国史に採り立てられた。 しかし、よく正論を吐き、孫皓の意に沿わぬ言動が重なったため、次第に冷遇されるようになった。『呉書』において孫皓の父孫和の[[本紀]]を立てるよう命じられた際、太子で終わった孫和には伝を立てるべきと回答し、これを拒否したことがその一例である。 憂いと病気を理由に辞任を要望したものの、孫皓は医者と薬を送り任務を続行させた。また、韋昭は酒が苦手であったが、酒好きであった孫皓は飲酒を無理強いした。また、孫皓が側近を酒宴に同席させて、群臣の欠点を論うことをよく要求したが、韋昭はこの風潮を良しとせず積極的に同調しなかった。 [[鳳凰 (呉)|鳳凰]]2年(273年)に投獄された。韋昭は『官職訓』・『辯釈名』を献上し赦免を請い、華覈も「韋昭は『呉書』を完成させるためになくてはならない人材だから」と述べて何度も助命嘆願をしたが、結局処刑された。家族は[[零陵]]に配流された。 年齢について、華覈が上記の嘆願文中で「年七十になり」と述べていることから、享年は70以上と推定される。 著作には『[[毛詩]]答雜問』・『[[孝経]]解讃』・『辯釈名』・『呉書』・『洞紀』・『漢官典職儀式選用』・『国語注』がある。『国語注』は現存し、[[春秋]]外伝『[[国語 (歴史書)|国語]]』の注として重要な書物である。 なお小説『[[三国志演義]]』には登場しない。 === 『呉書』について === 韋昭たちが執筆した『呉書』は、[[陳寿]]の書いた『三国志』の参考資料の一つとして挙げられるのみならず、『三国志』の「呉書」の部分は、韋昭らの『呉書』に基づき、それを編集したものであろうと推測される。ただ、『呉書』は編纂者たちの相次ぐ処刑や呉の滅亡などもあって完成しなかったようで、陳寿の『呉書』において列伝の一部がぶつ切れていることや、重要人物の列伝が立てられていないのもこのためだと思われる。呉の初代丞相だった[[孫邵]]の列伝が存在しないのは、韋昭が孫邵に敵対する派閥の流れであったため、筆を曲げたからだという説もある。 {{DEFAULTSORT:い しよう}} [[Category:中国の儒学者]] [[Category:近代以前の中国の歴史家]] [[Category:1世紀から5世紀の学者]] [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:呉の人物]] [[Category:鎮江出身の人物]] [[Category:273年没]]
韋昭
に戻る。
案内メニュー
個人用ツール
ログイン
名前空間
ページ
議論
変種
表示
閲覧
ソースを表示
履歴表示
その他
検索
案内
メインページ
コミュニティ・ポータル
最近の出来事
新しいページ
最近の更新
おまかせ表示
sandbox
commonsupload
ヘルプ
ヘルプ
井戸端
notice
bugreportspage
sitesupport
ウィキペディアに関するお問い合わせ
ツール
リンク元
関連ページの更新状況
特別ページ
ページ情報