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'''靖兵隊'''(せいへいたい)は、[[幕末]]にできた組織。'''精兵隊'''・'''精共隊'''・'''靖共隊'''とも(誤読・誤記から派生したといわれる)。 == 結成 == [[1868年]]([[慶応]]4年3月)、[[新選組]]は、名を[[甲陽鎮撫隊]]として、[[甲州勝沼の戦い]]に及んだが敗走。[[江戸]]に戻った後、[[永倉新八]]・[[原田左之助]]らは結盟以来の同志、局長[[近藤勇]]と意見の違いから新選組を離れる。 その後、間もなく永倉・原田は永倉と同じく[[松前藩]]の脱藩で[[神道無念流]]の同門[[芳賀宜道]]([[深川 (江東区)|深川]]冬木弁天境内道場主)を隊長として靖兵隊を結成した。新選組からは[[矢田賢之助]]・[[林信太郎]]・[[前野五郎]]・[[中条常八郎]]・[[松本喜次郎]]らが離隊して加わり、諸藩脱走者・旗本ら50名程・幕府歩兵50名程も集まったと言う。 初期の編成は次のとおり。 *隊長 - 芳賀宜道 *副長 - 永倉新八・原田左之助 *士官取締 - 矢田賢之助 *歩兵取締 - 林信太郎・前野五郎・中条常八郎・松本喜次郎 *兵数およそ100余名。 == 転戦 == 靖兵隊は和田倉門内会津屋敷跡に布陣していた[[米田圭次郎]]隊(歩兵300名)と合流して[[フランス]]式訓練を行っていたが、[[江戸城]]明け渡しが決定したことを知って同年[[5月2日]]([[4月10日 (旧暦)|4月10日]])に江戸を脱出する。 その行軍中、途中の[[山崎 (野田市)|山崎宿]]で原田左之助が離隊。[[岩井宿]]・[[室宿]]を経て新政府軍を突破し、[[5月11日]]([[5月19日 (旧暦)|5月19日]])、[[鹿沼宿]]に至ったところで[[大鳥圭介]]・[[秋月悌次郎]]ら旧幕府軍と合流。[[5月12日]]([[5月20日 (旧暦)|5月20日]])の[[宇都宮の戦い]]に参戦して勝利し、[[5月14日]]([[5月22日 (旧暦)|5月22日]])の[[壬生の戦い]]に敗れて[[今市宿]]に退却。米田圭次郎ら多数負傷者を出し、その後数日間休息する。 結城某総督の命により、永倉・矢田ら60名余りが今市へ出陣。矢田は顔面に被弾して戦死。戦死者20名・負傷者30名程を出して[[高徳宿]]へ退却。高徳で[[土佐藩]]兵との戦闘に勝利する。 [[6月11日]](閏4月21日)、芳賀宜道・永倉新八の2人が[[北白川宮能久親王|輪王寺宮]]より[[日光]]の奪還を命じられて会津藩へ援軍要請に向かったため、林信太郎・前野五郎が後任となる。 のち、一部を除き、[[近藤隼雄]]率いる新遊撃隊に編入され、10月に[[水戸藩]][[諸生党]]とともに[[水戸城]]攻略([[弘道館戦争]])に参戦するが、1日で敗退し、敗走先の[[銚子]]で[[高崎藩]]に降伏した。 == 参考文献 == * 永倉新八『新撰組顛末記』1998年、新人物往来社 ISBN978-4404026705 [[Category:幕末諸隊|せいへいたい]]
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