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'''豊島 休心'''(としま きゅうしん、生没年不詳)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[武蔵国]]から[[出羽国]][[秋田郡]]豊島郷(現・[[秋田市]][[河辺町|河辺]]戸島)に下向してきた人物。休心は[[入道]]してからの名乗りで別名・'''畠山 重村'''(はたけやま しげむら)。豊島郷(現・秋田県[[河辺郡]])に[[豊島城]]を築き'''豊島 玄蕃'''(としま げんば)と称して、出羽国土崎湊の[[安東氏|湊安東氏]]に属し豊島郷一帯を支配する。また、出羽国[[由利郡]]の[[由利十二頭]]の一人、[[仁賀保氏]]と姻戚関係を結んだ。[[永禄]]年間には、近隣の[[豊巻氏]](安東一族)や[[白根氏]]、[[平尾鳥氏]]、[[種沢氏]]らの館を奇襲で落として、豊島郷一帯を統一した。 [[元亀]]元年([[1570年]])湊安東氏に後継がなく、下国安東氏の養子、[[安東茂季]]が湊安東氏の当主になった。茂季は兄の[[安東愛季]]の意のままに動いたため、豊島領内との交易を制限した。またその頃、[[羽黒山]]の使者が神札配布のため奥羽各地を回っていたが、玄蕃は交易などのことからその使者を自領に引きとめ安東愛季への神札の配布を取り消すよう求めた。これに怒った安東愛季は出兵を決意した。 ついに玄蕃は下刈右京、川尻中務、仙北の[[小野寺氏]]、[[戸沢氏]]らとともに反旗を翻し「[[湊騒動]]」を起こす。その後、安東愛季の救援によってこの乱は鎮定されるがこの騒動は二年間続いたと言われる。 乱後、玄蕃は舅である仁賀保氏を頼り落ち延びるが、[[天正]]7年([[1579年]])、安東愛季から罪を許され、再度、豊島城主に復帰する。その後、重氏の代に由利十二頭の[[羽川氏]]によって滅ぼされる。 == 関連項目 == * [[河辺郡]] * [[豊島氏]] [[Category:豊島氏|きゆうしん]] [[Category:畠山氏|としま きゆうしん]] [[Category:戦国武将|としま きゆうしん]] [[Category:秋田県の歴史|としま きゆうしん]]
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