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'''留 略'''(りゅう りゃく、生没年不詳)は、[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の[[武将]]。[[留賛]]の子。[[留平]]の兄。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』では魏志の「三少帝紀」に引用された『漢晋春秋』、呉志の「三嗣主伝」、「諸葛恪伝」に記録がある。 == 生涯 == [[252年]]、[[孫権]]の死に乗じ、[[魏 (三国)|魏]]が東興、南郡、武昌の三方面より侵攻してきた。留略は[[全端]]と共に[[諸葛恪]]の命令で東興の二つの城に千人の兵士を率いて立て籠もった。留略は東城、全端は西城であった。やがて魏軍の[[胡遵]]と[[諸葛誕]]が城に攻めかかったが、地勢が険しかったため落とすことはできなかった。諸葛恪は父の留賛や[[呂拠]]、[[唐咨]]、[[丁奉]]を率いて、油断していた魏軍を攻撃しこれを破った(東興の戦い)。 [[255年]]には父の留賛が左将軍のまま寿春で戦死した。その後、呉は広陵に進出を図り、衛尉である[[馮朝]]に築城を命じた上(半年後に監軍、督徐州諸軍事に任命)、[[呉穣]]が広陵太守、留略が東海太守とされたとある(呉志「三嗣主伝」) 留略については、「[[孫峻]]伝」に付伝されている留賛の伝記においても、弟の留平とともに部将として活躍した、との記述しかないため、他の具体的な事蹟は不明になっている。 『[[三国志演義]]』にも登場し、東興の戦いで同様の活躍を見せる。 [[Category:三国志の登場人物|りゆう りやく]] [[Category:呉の人物|りゆう りやく]]
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