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田村銀之助
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'''田村 銀之助'''(たむら ぎんのすけ、[[安政]]3年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]([[1856年]][[8月30日]]) - [[大正]]13年([[1924年]])[[8月20日]])は、[[新選組]]隊士。 == 経歴 == 安政3年(1856年)、誕生。[[磐城平藩]]出身。 [[慶応]]3年([[1867年]])に兄の[[田村一郎 (武士)|田村一郎]]・[[田村録四郎]]らと共に12歳で新選組に入隊し、隊士としてではなく、局長[[近藤勇]]や副長[[土方歳三]]附属の小姓として所属した。[[戊辰戦争]]が勃発すると、新選組に従い[[鳥羽・伏見の戦い|鳥羽・伏見]]・流山を経て[[会津]]へ渡るが、若年だったため戦闘([[会津戦争]]など)には参加しなかったという。 [[江戸幕府|旧幕府]]軍が仙台で[[榎本武揚]]艦隊と合流すると、共に[[蝦夷地]]へ渡った。箱館政権([[蝦夷共和国]])では、陸軍奉行並土方歳三に所属する榎本総裁附きの小姓となり、また[[陸軍隊]]隊長[[春日左衛門]]の養子となる。[[箱館戦争]]中も非戦闘員として扱われ、通訳の[[田島応親]]よりフランス語を学ぶ。[[明治]]2年([[1869年]])5月11日に土方歳三、12日に春日左衛門がそれぞれ戦死すると、総裁榎本武揚や陸軍奉行[[大鳥圭介]]らに本営[[五稜郭]]からの脱出を勧められるが、断固として拒否した。 その後は明治政府に出仕し、[[陸軍士官]]として[[西南戦争]]などに参戦、[[開拓使]]も勤めた。大正9年([[1920年]])に[[史談会]]に出席。戊辰戦争時の談話を残す。 大正13年(1924年)、死去。[[享年]]69。 {{DEFAULTSORT:たむら きんのすけ}} [[Category:新選組隊士]] [[Category:戊辰戦争の人物]] [[Category:箱館戦争の人物]] [[Category:西南戦争の人物]] [[Category:戦前北海道史の人物]] [[Category:1856年生]] [[Category:1924年没]]
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