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[[ファイル:Hibiya Park Fountain2.JPG|thumb|200px|[[日比谷公園]]『鶴の噴水』(1905年[[岡崎雪聲]]と共作)。]] '''津田 信夫'''(つだ しのぶ、[[1875年]][[10月23日]] - [[1946年]][[2月17日]])は[[日本]]を代表する[[鋳金]][[工芸]][[作家]]。[[東京美術学校]](現在の[[東京芸術大学]])[[教授]]、[[芸術院]]会員。 == 経歴 == 1875年、[[千葉県]]の[[佐倉市|佐倉]]に[[佐倉藩]]医である津田長人の長男として生まれる。[[千葉県立佐倉高等学校|佐倉集成学校]](現在の[[千葉県立佐倉高等学校]])を経て[[1895年]]、東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学。鋳金を専攻。卒業後の2年後には東京美術学校の[[助教授]]になり、後に教授を務める。東京美術学校が[[公共事業]]として注文を受けた[[日比谷公園]][[噴水]]や[[アーク燈]]、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の装飾など[[公共施設]]の[[鋳造]]を多く手掛け近代的な都市づくりに貢献する。[[1923年]]([[大正]]12年)には金工の研究の為に[[ヨーロッパ]]へ[[留学]]し、[[イタリア]]、[[イギリス]]、[[ギリシャ]]、[[フランス]]、[[ドイツ]]等で、当時ヨーロッパで流行していた装飾様式の[[アール・デコ]]などを学ぶ。[[1925年]](大正14)の[[パリ万国博覧会 (1925年)|パリ万国博覧会]]では日本代表として審査員を務める。この博覧会で日本のデザインの停滞ぶりと各国の新潮流に衝撃を受け、当時のヨーロッパの工芸の状況を日本へ伝え、若手工芸家に大きな影響を与えた。1946年(昭和21)に72歳で没する。 == 作品 == *『鸚鵡』 *『カンガルー』 *『一去一来』 *『隠霧澤毛』 *『霊亀曳尾』 == 展覧会 == 2010年8月7日~同9月23日、[[佐倉市立美術館]]において「津田信夫展」が開催された<ref>[http://www.city.sakura.lg.jp/museum/exhibition/tsuda_exh.htm 津田信夫展 ―佐倉市立美術館]</ref>。同展は津田信夫初の回顧展となり、日本国内・国外で所在の確認されている作品を可能な限り収集・展示した。 == 関連項目 == *[[金工]] *[[鋳金]] *[[工芸]] *[[工芸家]] == 関連文献 == *『佐倉誌』林壽祐 大正13年 *『房総美術の往還』 中地昭男 [[求龍堂]] 平成3年 *『佐倉市郷土の先覚者 津田仙』 佐倉市教育委員会 平成8年度 *『明治に生きた佐倉藩ゆかりの人々』内田儀久 聚海書林 平成9年 == 脚注 == <references /> {{DEFAULTSORT:つた しのふ}} [[Category:日本の工芸家]] [[Category:日本藝術院会員]] [[Category:東京芸術大学の教員]] [[Category:千葉県出身の人物]] [[Category:1875年生]] [[Category:1946年没]]
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