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'''本城 常光'''(ほんじょう つねみつ、[[永正]]10年([[1513年]])- [[永禄]]5年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]([[1562年]][[12月1日]])は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[石見国]]の[[武将]]。[[高橋興光]]の弟とされる。石見[[山吹城]]城主。官位は越中守。子に[[本城隆光]]、[[本城春政|春政]]他。 == 生涯 == はじめ[[尼子経久]]に仕えたが、[[尼子晴久|晴久]]の代になり[[尼子氏]]が[[1540年]]の[[毛利元就]]の[[吉田郡山城]]攻めで大敗すると、[[大内義隆]]に服属する。義隆が[[1543年]]に[[出雲国]]に侵攻して大敗を喫すると、再び尼子氏の家臣となった。 常光は武勇に優れ([[忍原崩れ]]、[[降露坂の戦い]])、晴久に見込まれて石見最前線である山吹城代に任ぜられた。また、石見国人でありながら尼子氏直臣と同等に扱われていた。[[1561年]]、晴久が死去して毛利元就が石見に侵攻して来ると、[[雲芸和議]]で一方的に晴久の嫡男・[[尼子義久|義久]]が[[毛利氏]]と和睦。これにより反毛利側として乱を起こした[[福屋氏]]を支援していた常光を含む石見尼子方の武将は動揺し、ついには居城である山吹城を毛利軍に包囲され降伏した。 しかし永禄5年(1562年)、常光の武勇と性格への猜疑から毛利元就によって誅殺された(石見銀の供出を渋ったのも原因とされる)。常光の処断により、毛利側に寝返っていた尼子側国人の大半が再び尼子側へと寝返り、毛利氏は出雲平定に4年もかかる事となった。その一方で、第一次[[月山富田城の戦い]]の経緯(長期間の包囲が続く中で、常光ら国人衆の裏切りにより[[大内氏]]は敗北した)から、一定の評価もなされている。また元就の兄・[[毛利興元]]の妻が常光の姪であったことや、彼の兄の[[高橋氏]]が[[安芸国]]で毛利氏よりも所領が上であった事も一因と指摘する者もいる。 なお、次男の本城春政が[[吉川元春]]に仕官。その子[[本城家房]]も[[吉川広家]]に仕えて、[[岩国藩]]士として続いた。 == 関連項目 == *[[尼子晴久]] *[[毛利元就]] {{DEFAULTSORT:ほんしよう つねみつ}} [[Category:石見高橋氏]] [[Category:戦国武将]] [[Category:暗殺された人物]] [[Category:石見国の人物]] [[Category:1513年生]] [[Category:1562年没]]
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