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服部一忠
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'''服部 一忠'''(はっとり かずただ、生年不詳 - [[文禄]]4年([[1595年]])7月)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。通称は'''小平太'''、[[采女|采女正]]。名は'''春安'''、'''忠次'''とも。 == 生涯 == [[尾張国]]の出身。はじめ[[織田信長]]に[[馬廻]]として仕え、[[永禄]]3年([[1560年]])の[[桶狭間の戦い]]において[[今川義元]]に一番槍をつける戦功をあげた。しかし、義元の反撃を受けて膝を斬られたので、首級を挙げたのは助太刀に入った[[毛利良勝]]であった。桶狭間の戦い以降は[[織田氏]]の配下として目立った活躍は知られていない。 [[天正]]10年([[1582年]])の[[本能寺の変]]ののち、再び馬廻として[[豊臣秀吉]]に仕えて[[黄母衣衆]]の一員となる。天正13年([[1585年]])、従五位下采女正の官位に叙せられた。また、[[小田原征伐]]の戦功により、天正19年([[1591年]])に[[松阪城]]主に抜擢されて[[伊勢国]][[一志郡]]に3万5000石を与えられ、同時に当時、尾張・北伊勢の支配した[[豊臣秀次|羽柴秀次]]に付けられた。文禄元年([[1592年]])、[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]において[[ソウル特別市|漢城]]に従軍。 文禄4年(1595年)の[[豊臣秀次#秀次事件|豊臣秀次]]失脚に連座して所領を没収され、[[上杉景勝]]に預けられた後、切腹を命じられた。次男の[[大崎勝長|勝長]]は[[大崎長行]]の養子となり紀伊徳川家に仕えた。 == 関連作品 == ;小説 *桶狭間の勇士-[[文藝春秋]]、[[中村彰彦]]著 {{DEFAULTSORT:はつとり かすたた}} [[Category:戦国武将]] [[Category:織豊政権の大名]] [[Category:愛知県の歴史]] [[Category:名古屋市の歴史]] [[Category:尾張国の人物]] [[Category:桶狭間の戦い]] [[Category:1595年没]]
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