張儀のソースを表示
←
張儀
移動先:
案内
、
検索
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
'''張儀'''(ちょうぎ、? - [[紀元前309年]])は、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[遊説家]]、[[政治家]]。[[魏 (戦国)|魏]]の人。[[蘇秦]]と共に[[縦横家]]の代表的人物とされ、[[秦]]の[[宰相]]として[[蘇秦]]の[[合従]]策を[[連衡]]策で打ち破り、秦の統一に貢献した。 == 史記による略歴 == ===恥辱=== 張儀は若い頃、[[蘇秦]]と共に[[鬼谷子]]に学び、その後諸国を遊説したが、中々受け入れてもらえず、[[楚 (春秋)|楚]]の大臣に従って宴会に出た時には窃盗の疑いをかけられ袋叩きにあったことまである。傷だらけの張儀は妻に対し「舌はまだついているか?」と聞き、ついていると返答されると「舌さえあれば十分だ」と答えたと言う。 その後も不遇だった張儀はすでに趙で出世していた蘇秦を頼って行った。しかし予期に反して大いに侮辱されたため、発奮した張儀はこの屈辱をばねに秦に仕官する事が出来た。だが、この時仕官に必要だった資金は蘇秦がひそかに出したものだった。[[燕 (春秋)|燕]]と[[趙 (戦国)|趙]]を同盟させた蘇秦は、張儀が秦で出世して同盟が定着するまで趙を攻めないよう秦王に働きかけさせるためにわざと張儀を侮辱したのである。人からその話を聞いた張儀は感じ入り「蘇君が在命のうちは自分にはなにもできない」とへりくだった。 ===秦の宰相=== 張儀はその後、魏を討ち、上郡・少梁を獲得した功績で宰相となった。しかし魏が[[田斉|斉]]に接近するようになると、魏の宰相となり、秦と魏の同盟を成立させ、再び秦の宰相となった。この際、かつて張儀を袋叩きにした楚の宰相に対し、「あなたはかつて私を疑い、ひどい目にあわせたが、今度は本当にあなたの城を奪ってやる。」との文を送りつけたと言われている。 [[紀元前316年]]、[[蜀]]に内紛が起きたのでこれに乗じるべきかと[[恵文王 (秦)|恵文王]]に問われた時に張儀は[[韓 (戦国)|韓]]を攻めて、[[周]]を恫喝し、天下に号令すべきと説いたが、恵文王は[[司馬錯]]の献言に従い蜀を占領した。 ===楚への復讐=== [[紀元前313年]]、張儀は対楚工作に入り、楚に対し商・於(かって[[商鞅]]が封ぜられた土地)の地六百里四方を割譲するから斉との同盟を破棄して欲しいと申し入れた。楚の[[懐王]]は喜んでこれに応じ、斉との同盟を破棄して、将軍に秦に領土を受け取りに行かせたが、張儀は六里四方の土地を割譲すると言った。これに楚の将軍は約束は六百里だと猛烈に抗議するが張儀はとぼけて相手にしなかった。 懐王は大いに怒り、秦に対し出兵したが、大敗する([[藍田の戦い]])。その後、秦から楚に土地を割譲する事で和睦しようとしたが懐王は「土地など要らぬ。張儀の命が欲しい。」と言い、これに答えて張儀は楚に行った。張儀には生還する策があった。懐王の寵姫に人を使って「秦は張儀の命を救うために懐王に財宝と美女を贈るつもりです。もしそうなったらあなたへの寵愛はどうなるでしょうな」と言わせ、不安に思った寵姫は懐王に張儀を釈放する事を願ったので懐王は張儀を釈放した。 その後、恵文王が死に、張儀とは不仲であった[[太子]]が即位し[[武王 (秦)|武王]]となった。張儀は誅殺を恐れ、策があるからと言って魏に逃げ、魏の宰相となって一年後に没した。 ==注== <references /> {{DEFAULTSORT:ちようき}} [[Category:春秋戦国時代の人物]] [[Category:縦横家の人物]] [[Category:紀元前309年没]]
張儀
に戻る。
案内メニュー
個人用ツール
ログイン
名前空間
ページ
議論
変種
表示
閲覧
ソースを表示
履歴表示
その他
検索
案内
メインページ
コミュニティ・ポータル
最近の出来事
新しいページ
最近の更新
おまかせ表示
sandbox
commonsupload
ヘルプ
ヘルプ
井戸端
notice
bugreportspage
sitesupport
ウィキペディアに関するお問い合わせ
ツール
リンク元
関連ページの更新状況
特別ページ
ページ情報