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[[ファイル:Ootaka6454.jpg|thumb|200px|大高又次郎招魂之碑、霊山護国神社、京都市左京区]] '''大高又次郎'''(おおたか またじろう、[[文政]]4年([[1821年]])12月-[[元治]]元年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]([[1864年]][[7月8日]]))は、[[幕末]]の[[尊皇攘夷]]派[[志士]]で、[[林田藩]]士。父は六八郎義郷。[[赤穂浪士]]四十七士の一人[[大高源五|大高忠雄]]の子孫。 幼少より[[甲州流軍学]]、西洋砲術など軍事に関わる事を専ら学び、父・六八郎より皮具足の製法の直伝を受け、「大高製の皮具足」と呼ばれて好評を得る。 [[安政]]5年([[1858年]])に脱藩。[[京都]]へ出て、[[梅田雲浜]]、[[頼三樹三郎]]、[[吉田松陰]]門下の野村和作などの志士と交流を持ち[[梅田雲浜]]宅に住み込んでいた。[[安政]]6年には萩へ赴き[[吉田松陰]]とも出会っている。この際、長州藩主が参勤で伏見に立ち寄った際に京の活動家貴族と対面させる計画を持ちかけた(伏見要駕策)が、藩重役の反対にあい計画は頓挫している。[[安政の大獄]]により梅田が捕らえられたのを追って[[江戸]]に潜伏。しかし梅田の処刑で、自らにも[[徳川幕府|幕府]]の追捕が迫ったため、[[浅草寺]]で坊主に変装して江戸を脱出し、京都の[[長州藩]]邸に逃げ込む。その後[[古高俊太郎]]住居別棟に居住し、武具・兵器の調達を担当するなど尊皇攘夷活動を続けた。[[元治]]元年([[1864年]])6月5日、義弟・[[大高忠兵衛|忠兵衛]]とともに[[池田屋事件]]に遭遇。奮戦むなしく[[新選組]]によって討たれた。享年42。[[明治]]に入ってから正五位を贈られる。 池田屋事件後の6月7日、大高家は新選組の家宅捜索を受ける。夫の後を追おうと自害しようとして失敗し重体だった妻・とみ、子供6人、門弟2人らはこの時に捕らえられ、長男・幸一郎だけは捕縛を免れて鳥取へ逃げ延びる。約3ヶ月後に釈放されたが家財は既に没収されていたため林田藩に帰郷したと言う。 {{デフォルトソート:おおたか またしろう}} [[Category:幕末林田藩の人物]] [[Category:1823年生]] [[Category:1864年没]]
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