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'''大内 弘茂'''(おおうち ひろしげ、生年不詳 - [[応永]]8年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]([[1402年]][[2月1日]]))は、[[室町時代]]前期の[[武将]]、[[守護大名]]。[[周防国|周防]]・[[長門国|長門]]守護。[[大内氏]]第9代当主[[大内弘世]]の7男で兄に[[大内義弘|義弘]]、[[大内満弘|満弘]]、[[大内盛見|盛見]]、弟に[[大内道通|道通]]など。新介と称する。周防介。 応永6年([[1399年]])、[[応永の乱]]で長兄義弘に従って[[堺市|堺]]に籠城したが、兄が[[室町幕府]]3代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]率いる幕府軍の火攻めにあって戦死したため、その軍門に降った。義満は戦後の大内氏に対する処罰として、[[豊前国|豊前]]・[[石見国|石見]]・[[和泉国|和泉]]・[[紀伊国|紀伊]]を没収すると同時に、弘茂が義満に臣従することを条件として家督相続と周防・長門二ヶ国の所領のみ安堵した。 ところが、本国の留守を守っていた弘茂の兄盛見が所領没収に従わずに義満に反抗したため、義満は弘茂に盛見の討伐を命じる。弘茂は義満や[[安芸国|安芸]]、石見の諸大名から支援を受けて盛見と戦い、一時は盛見を豊前に放逐したが、応永8年(1401年)12月に反攻してきた盛見の軍勢と長府の[[四王司山城]]で戦うが敗れ、同じく長府の[[佐加利山城]]において討ち取られた。法名は真休院殿日菴浄永。 弟の道通が反盛見派に擁立されたが、彼も盛見に討ち取られ、周辺勢力を降伏させた盛見の前に幕府もやむを得ず盛見を次の当主と認め、家督と周防・長門守護職を安堵した。大内氏は応永の乱で衰退したが、盛見の代で勢力を盛り返すことになる。 {{デフォルトソート:おおうち ひろしけ}} [[Category:大内氏|ひろしけ]] [[Category:守護大名]] [[Category:室町時代の人物]] [[Category:生年不明]] [[category:1402年没]]
大内弘茂
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