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'''大乗の乱'''(だいじょうのらん)とは、[[中国]][[北魏]]の[[宗教]]反乱である。人を殺せば殺すほど、教団内での位が上がるという教説に従った[[殺人]]集団であり、その背景には[[弥勒]]下生信仰があるとされる。また、同時期に中国に伝来していたとされる[[マニ教]]によるとする説もある。北魏の正史である『[[魏書]]』が、その顛末を伝える[[一次資料]]である。 [[515年]]([[延昌]]4年)6月、沙門の法慶が[[冀州]]([[河北省]])で反乱を起こし、[[勃海郡|渤海郡]]を破り、[[阜城県]]の[[県令]]と[[官吏]]を殺害した。法慶は自らを「[[大乗]]」と称した。それより先に、法慶は[[幻術]]をよくし、渤海郡の人であった李帰伯の一族を信徒とし、法慶が李帰伯に対して「十住菩薩・平魔軍司・定漢王」という称号を与えた。その教えでは、一人を殺すものは一住菩薩、十人を殺すものは十住菩薩であるという。また[[狂薬]]を調合し、肉親も認知できない状態にして、ただ殺害のみに当たるようにさせた。 刺史の[[蕭宝寅]]が征討を図ったが敗れた。凶徒は5万余人に及び、至る所で寺舎を破壊し、[[僧]][[尼]]を惨殺し、経像を焼き捨てた。そのスローガンは「新仏が世に出んとす、旧魔を除き去れ」というものであったという。 7月、[[征北大将軍]]に任じられた[[元遥]]が討伐に向かった。元遥は、反乱の徒を撃破して鎮圧し、法慶と妻で尼の恵暉ら数百人を斬り、その首を都に送った。李帰伯も後に捕らえられ斬殺された。 == 参考文献 == *[[重松俊章]]「唐宋時代の弥勒教匪」『史淵』3、1931年。(宋代の「喫菜事魔」の淵源を大乗の乱に見る) *[[塚本善隆]]「北魏の仏教匪」『支那仏教史学』3-2 1939年。 *[[佐藤智水]]「北魏末の大乗の乱と災害」『岡山大学文学部紀要』14、1990年。 *[[三石善吉]]「大乗の乱:仏教的千年王国」『中国の千年王国』、東京大学出版会、1991年。 {{DEFAULTSORT:たいしようのらん}} [[Category:魏晋南北朝]] [[Category:仏教の歴史]] [[Category:中国の秘密結社]] [[Category:河北省の歴史]]
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