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'''喜多見藩'''(きたみはん)は、[[武蔵国]][[多摩郡]](現在の[[東京都]][[世田谷区]][[喜多見]])を治めた[[藩]]。藩庁は喜多見城(喜多見陣屋)に置かれた。 == 概要と藩史 == 藩主の[[喜多見氏]]は、名族[[秩父氏]]の流れを汲む[[江戸氏|武蔵江戸氏]]の後裔の一族。江戸氏は平安時代後期に江戸郷を領地とした[[江戸重継]]を祖とし、多数の支流一族を配して武蔵国の広範囲に勢力を拡大した。しかし、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]になると[[江戸氏]]は江戸を[[太田道灌]]に明け渡して喜多見に移り、[[古河公方]]、次いで[[後北条氏]]の家臣となっていたが、[[天正]]18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]で北条氏が敗北すると、[[喜多見勝忠]]は[[徳川氏]]の家臣となり、姓を喜多見に改めた。勝忠は[[関ヶ原の戦い]]、[[大坂の陣]]に従軍した功績から[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])に[[近江国]]郡代となる。その後も[[摂津国|摂津]]・[[和泉国|和泉]]・[[河内国|河内]]の3ヶ国奉行を務め、[[後陽成天皇|後陽成院]]の葬礼を務めるなどの功績を挙げたことから、2000石にまで加増された。[[寛永]]4年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]([[1628年]][[2月1日]])、勝忠は[[堺市|堺]]で病死した。[[享年]]60だった。死後、家督は次男の[[喜多見重恒]]が継いだ。このとき、2000石の所領は1000石を重恒、残る1000石を[[喜多見重勝]]が継いだ。重恒は[[延宝]]7年[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]([[1679年]][[7月28日]])に死去し、後を外孫の[[喜多見重政]]が継いだ。重政は[[徳川綱吉]]の御側小姓にまで出世して2000石、後には6800石余を加増され、合計1万石の所領を領することとなり、諸侯に列した。さらに[[側用人]]にまでなっている。[[貞享]]3年([[1686年]])、河内・武蔵国内においてさらに1万石を加増されて合計2万石の大名となり、武蔵喜多見に陣屋を置いて、喜多見藩を立藩した。 しかし[[元禄]]2年([[1689年]])2月、喜多見氏の分家筋であった[[喜多見重治]]が朝岡直国と刃傷事件を起こしたため、連座により改易された重政は、[[松平定重]]預かりとなる。そして元禄6年[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]([[1693年]][[8月29日]])、重政は狂死し、藩は消滅した。ちなみに現在の[[東京23区]]に該当する地域内に藩庁([[陣屋]])が設置されていた唯一の藩である。 == 歴代藩主 == === 喜多見家 === 1万石 - 2万石 {| class="wikitable" !代!!氏名!!読み!!官位・官職!!在任期間 |- !1 |[[喜多見重政]]||しげまさ||[[従五位下]]、若狭守||[[貞享]]3年([[1686年]]) - [[元禄]]2年([[1689年]]) |} == 関連項目 == *[[藩の一覧]] {{DEFAULTSORT:きたみはん}} [[Category:藩]] [[Category:武蔵国|藩]] [[Category:喜多見氏|藩]] [[Category:東京都の歴史]] [[Category:世田谷区の歴史]] [[Category:江戸時代の東京]]
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