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'''劉 洪'''(りゅう こう、[[140年]]? - [[206年]])は、[[中国]]、[[後漢]]時代の[[天文学者]]。字は'''元卓'''。漢の[[宗室]]で、[[乾象暦]]を編纂したことで知られる。 {| class="wikitable" style="float:right; font-size:smaller" |- ! 姓名 | 劉洪 |- ! 時代 | [[後漢]]時代 |- ! 生没年 | [[140年]]?([[永和 (漢)|永和]]5年) - [[206年]]([[建安 (漢)|建安]]11年) |- ! 字・別号 | 元卓(字) |- ! 本貫・出身地等 | [[兗州]][[泰山]]郡[[蒙陰県]] |- ! 職官 | [[校尉]]〔後漢〕→[[光禄勲|郎中]]〔後漢〕</br> →[[常山郡|常山]]長史〔後漢〕→[[光禄勲|郎中]]〔後漢〕</br> →[[光禄勲|謁者]]〔後漢〕→穀城門候〔後漢〕</br> →[[会稽郡|会稽]]東部[[都尉]]〔後漢〕</br> →山陽[[太守]]〔後漢〕→曲城侯相〔後漢〕 |- ! 爵位・号等 | - |- ! 陣営・所属等 | [[後漢]] |- ! 家族・一族 | - |} ==略歴== [[山東省|山東]][[蒙陰県]](現在の[[臨沂]]市内)出身。[[前漢]]の魯王・[[劉余]]の末裔として生まれた。 信篤くして学問を好み、[[儒学]]の基本教養である[[六芸]]や様々な書物について精通しており、天文学や数学知識によって物事の深淵を探求したと伝わる。 初めは校尉となっていたが、[[延熹]]年間、[[桓帝 (漢)|桓帝]]に徴召されて太史の職に就き、官を遷って郎中となる。しばらくして[[常山郡|常山国]]の長史となるも、父の喪に服すためにいったん官を辞した。 後に[[郷挙里選|上計掾]]に選出され、郎中を拝し、謁者、穀城門候、会稽東部都尉などを歴任する。会稽から中央に徴されるが、京師に着かないうちに山陽太守に任ぜられ、そして曲城侯の相に遷り、在職中に逝去した。 また、『[[博物記]]』によると、彼が曲城侯の相となっていたとき、その政治や礼教は清らかで均しく、官僚や民は彼を畏敬しつつも愛したと伝わり、彼は七曜術と乾象暦を作ったが、このうち乾象暦は[[中国暦|中国の暦法]]の一つである[[定朔]]法に繋がる重要な発明となった。 また、[[蔡ヨウ|蔡邕]]とともに東観で『[[漢書]]』律暦志の補完作業にもあたっている。 ==乾象暦== 劉洪は、乾象暦の作成にあたり、月の公転運動の不均等性を考慮した。[[近点月]]の長さを27.55336日と測定し、[[白道]]と[[黄道]]に約6度のずれがあることを発見した。これは後に呉の暦法として使われ、呉の[[闞沢]]が『乾象暦注』を著して誤差を修正し、呉の滅亡に至るまで用いられることとなった。 == 参考文献 == *<span style="font-size:90%;">『[[続漢書]]』律暦志注[[袁山松]]『[[後漢書]]』 *同律暦志注『[[博物記]]』 ==外部リンク== *[http://www.shandong.gov.cn/gtb/index.jsp?url=http://www.shandong.gov.cn/art/2007/10/31/art_2503_150841.html 算學奇才——劉洪] {{DEFAULTSORT:りゆう こう}} [[Category:中国の天文学者]] [[Category:1世紀から5世紀の学者]] [[Category:漢代の人物]] [[Category:劉氏|こう]] [[Category:140年生]] [[Category:206年没]] [[Category:天文学に関する記事]]
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