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'''仁田 忠常'''(にった ただつね、[[仁安 (日本)|仁安]]2年([[1167年]]) - [[建仁]]3年[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]([[1203年]][[10月12日]]))は、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期にかけての[[武将]]。通称は四郎。父母は不詳。名は'''新田忠常'''とも、'''日田忠常'''とも言われ、『[[平家物語]]』では「にたんのただつね」と読まれる。[[ファイル:Yoshitoshi Apparition in a Cave.jpg|thumb|220px|仁田忠常/[[月岡芳年]]画([[明治時代]])]] == 生涯 == [[伊豆国]]仁田郷(現[[静岡県]][[田方郡]][[函南町]])の住人で、[[治承]]4年([[1180年]])の[[源頼朝]]挙兵に加わっている。頼朝からの信任は厚く、[[文治]]3年([[1187年]])正月、忠常が危篤状態に陥った時、頼朝が自ら見舞っている。[[平氏]]追討に当たっては[[源範頼]]の軍に従って各地を転戦して武功を挙げた。[[文治]]5年 ([[1189年]])の[[奥州合戦]]においても戦功を挙げる。[[建久]]4年([[1193年]])の[[曾我兄弟の仇討ち]]の際に、兄の[[曾我祐成]]を討ち取る。 頼朝死後は跡を継いだ二代将軍・[[源頼家]]に仕えた。頼家からの信任も厚く、頼家の嫡男[[一幡]]の乳母父となっている。建仁3年([[1203年]])9月2日、頼家が危篤状態に陥り、[[比企能員の変]](比企の乱)が起こると、忠常は[[北条時政]]の命に従い、時政邸に呼び出された頼家の外戚・[[比企能員]]を謀殺した。5日、頼家が回復すると、逆に頼家から時政討伐の命令を受ける。翌晩、忠常は頼家の命を受けながらも、能員追討の賞を受けるべく時政邸へ向かうが、帰宅の遅れを怪しんだ弟たちの軽挙を理由に謀反の疑いをかけられ、時政邸を出て御所へ戻る途中で[[加藤景廉]]に殺害された。享年37。 静岡県田方郡函南町仁田には、忠常の墓と館跡がある。 == 関連項目 == *[[曽我物語]] {{DEFAULTSORT:につた たたつね}} [[category:平安時代の武士]] [[category:鎌倉時代の武士]] [[Category:1167年生]] [[Category:1203年没]]
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