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#'''中条流'''(ちゅうじょうりゅう)とは[[室町時代]]初期に[[中条長秀]](? - [[弘和]]4年([[1384年]]))によって創始された[[日本武術|武術]]の流儀である。本項で詳述する。 #'''中条流'''(ちゅうじょうりゅう)とは[[堕胎]]を専門にする女医である。またはそのために用いられる[[水銀]]から作られた薬品の名。語源は[[豊臣秀吉]]の臣下であった[[中条帯刀]]を祖とする[[産婦人科]]の流派から。 ---- '''中条流平法'''(中條流平法)は、中条長秀を開祖とする武術の流派。短い太刀を使う[[剣術]]で有名であった。剣術以外に[[槍術]]なども伝えていた。 == 歴史 == [[念流]]開祖の[[念阿弥慈恩]]の高弟であった中条長秀が、中条家家伝の刀法に自己の工夫を加えて創始したと伝えられる。 中条家は長秀の孫・[[中条詮秀|詮秀]]、曾孫・[[中条満秀|満秀]]の代で断絶したが、流儀は長秀から甲斐豊前守広景へ継承され、さらにその門人・大橋勘解由左衛門高能から山崎右京亮昌巖へと伝わった。昌巖が戦死したため、昌巖の弟子、冨田九郎左衛門長家が後見人として昌巖の子、山崎右京亮景公と山崎内務丞景隆へと中条流を伝えた。 その後、冨田家では長家から子の治部左衛門景家、景家の嫡子・[[富田勢源|冨田勢源]]([[1523年]](大永3年) - ?)、次子・[[富田景政|冨田景政]](? - [[1593年]](文禄2年))と代々冨田家で中条流を継承、発展させたことから一般的には[[冨田流]]と呼ばれるようになったが、山崎家や加賀藩で冨田家に次いで師範家となった関家などでは一貫して中条流として伝承された。 なお、勢源の義理の甥にあたる[[富田重政|重政]]が山崎家出身であったように、山崎家と冨田家は関係が深かった。山崎家の中条流は[[昭和]]初期 - 中頃までは存続していたが、現在は失伝したようである<ref>小島 英煕 『素顔の剣豪たち』中条流の巻より。現在、中条流を伝えていた山崎家の山嵜正美氏が『平法中条流の会』にて史実の研究を行っている。</ref>。 後の[[一刀流]]、[[冨田流]](戸田流、[[當田流]]、外他流)等、多くの有名流派の母体となった。 == 形 == 山崎家や富山県や石川県に残る中条流の古文書によると、二尺ほど(約60センチメートル)の短い太刀で刃長が三尺(約1メートル)長い太刀と戦う太刀の形三十三本を中心に刀(短刀を使う[[小具足術|小具足]]のような技)、槍や長刀などが伝えられていた。 == 関連項目 == * [[冨田流]] * [[鐘捲流]] * [[一刀流]] * [[巌流]] * [[東軍流]] * [[念流]] == 脚注 == <references /> == 参考文献 == * 「[[歴史読本]] 特集 秘伝!武芸流祖録」、[[新人物往来社]]、152-153頁、[[1993年]](平成5年)11月号。 * 「別冊歴史読本 読本シリーズ7 日本伝承武芸流派読本」、新人物往来社、58-65頁、[[1994年]](平成6年)。 * 小島英煕 『素顔の剣豪たち』 [[日本経済新聞社]] ISBN 4532162858 {{DEFAULTSORT:ちゆうしようりゆう}} [[Category:剣術流派]] [[Category:妊娠中絶]]
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