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下間頼廉
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'''下間 頼廉'''(しもつま らいれん、[[天文 (元号)|天文]]6年([[1537年]])- [[寛永]]3年[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]([[1626年]][[8月11日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]の僧侶、[[武将]]。[[石山本願寺]]の坊官。[[下間頼康]]の子。母は[[下間頼次]]の娘。子に[[下間頼亮|頼亮]]、[[下間宗清|宗清]]、[[下間仲玄|仲玄]]、[[下間仲世]]室、[[牧長勝]]室、[[端坊明正]]室、[[川那部宗甫]]室。幼名は虎寿、通称は源十郎、[[衛門府|右衛門尉]]。剃髪し刑部卿と号す。法名は了入、了悟。[[僧位|法橋]]、法眼、法印に任ぜられる。 == 生涯 == 本願寺法主[[顕如]]に仕え、[[織田信長]]との[[石山合戦]]では[[鈴木重秀]](雑賀孫一)と共に本願寺軍の武将として織田軍を苦しめた。このため、「大坂之左右之大将」と呼ばれたという。しかし単なる軍事指揮官だけではなく、天正4年([[1576年]])に[[七里頼周]]が[[加賀国|加賀]]にて無法を行なった時には、それを改めるよう文書を発するなど、政治面においても重きをなしていた。 天正8年([[1580年]])、本願寺軍が織田軍の前に敗色濃厚となると、[[正親町天皇]]の勅命講和により本願寺を退去することとなったが、頼廉も同族の[[下間頼龍]]や[[下間仲孝]]らと共に講和に署名している。講和後は顕如に従って本願寺を退去し、各地で織田軍に対して抵抗を続ける一向宗徒の説得に当たった。 信長死後、顕如と並ぶ本願寺の中心人物であった頼廉に対して[[豊臣秀吉]]や[[徳川家康]]らから一向宗徒を軍として貸してほしいという依頼がたびたびあったが、頼廉はこれに対して終始中立を保った。 天正17年([[1589年]])、秀吉から七条猪熊に宅地を与えられ、本願寺町奉行に任じられた。天正20年([[1593年]])に[[教如]]が本願寺を退去して[[准如]]が法主の座を継承した事に関して秀吉の裁定に意義を唱えた事で勘気を蒙ったが後に赦免され、同年中には改めて准如に従う旨を記した誓紙を提出し以後は本願寺の東西分裂に際しても一貫して准如を支持した。 寛永3年(1626年)、90歳という長寿をもって死去した。3男の仲玄が後を継ぎ、子孫は'''刑部卿家'''と呼ばれ代々[[西本願寺]]に仕えた。 == 参考文献 == *[[柏原祐泉]]・[[薗田香融]]・[[平松令三]]監修『真宗人名辞典』(1999年、[[法藏館]]) == 関連項目 == *[[下間氏]] {{DEFAULTSORT:しもつま らいれん}} [[category:下間氏|らいれん]] [[category:戦国武将]] [[Category:室町・安土桃山時代の僧]] [[Category:浄土真宗の僧]] [[Category:1537年生]] [[Category:1626年没]]
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